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宿業 14

ヘンネス・アンヌーンの岩屋では、部下からの報告書に目を通すファラミアの眉間に深い皺が刻まれていた。

配下の野伏が記したその報告書の中には見過ごしには出来ぬひとつの暗い影が潜んでいたからだ。

 

嘗て賢者であるガンダルフの言に従い、ゴンドール東部に居を構えていた野伏達を近衛軍に編入したのは当時の執政であったファラミアの祖父・エクセリオン二世である。

だがその際彼の嫡男・デネソールは、野伏達を近衛の正規軍とする事を頑として拒んだ。

最終的にはエクセリオンが折れ、野伏達は遊軍としてヘンネス・アンヌーンに常駐する事となったのだが、その結果、諜報・偵察を旨とする遊軍に於いて野伏達の特性が最大限に活かされる事となった。

アングマールの魔王に祖国を奪われた北方の民を祖に持つ野伏達は、例え数世代を経ていようとも、祖国を奪った黒の勢力に対する鋭い嗅覚を連綿と受け継いでいる。

それは南方に生まれ育ち、生涯唯の一度も北方に足を向ける事とてない大多数のゴンドールの民から成る正規軍の近衛兵に望むべくもないものなのである。

そもそもヴァルノーリから大海を渡って中つ国にやって来たエルフ達が最初に足を踏み入れ、今尚そのエルフが住まう地であり、更にはドワーフや、数代遡れは竜の姿さえ見られたという北方とは違い、南方のゴンドールは人が統べる生粋の“人の国”である。

エルフや竜は勿論、ドワーフでさえ目にする者など殆ど皆無であるゴンドールの人間にとって、上古の伝承を身近な現実と感じられる素地はない。

ゴンドールに於いては、灰色の賢者に師事し伝承に通ずると言われるファラミアの方こそ稀な存在なのだ。

だがその意味では賢者である魔法使いを厭い、エルフや西方の血に依る恩寵をもあからさまに嫌悪しつつ、それでも尚ゴンドール国内に並びなき伝承の識者として名高いデネソールこそファラミアより遥かに稀有な存在と言えよう。

父がその知見を以て野伏達を遊軍としてヘンネス・アンヌーンに留め置いたのであれば恐るべき慧眼と言わざるを得ない。

立ち向かわねばならぬ相手の計り知れない大きさに、ファラミアは絶望的瞠目を感じずにはいられなかった。

越えるべき壁はあまりにも高く険しい。

 

「だが」

と、ファラミアは報告書に目を据えたまま、自らを鼓舞する様に呟いた。

父と対面した1年半前と、今では状況が大きく変わっている。

それは半年程前、デネソールが強権を以て都の貴族達が抱える私兵を解散させた事に端を発している。

それに拠り余剰となった貴族達の私財を、デネソールは国庫に納めさせたのである。

当然激しく反発するものと思われた文門の重臣達からは、思い設けず声高な抗議に代わり執政に親衛隊を解散させよ、との条件が出されるのみに留まった。

但しそれはデネソールが親衛隊に執政家の巨額な私財を投じているから、という訳では、無論、ない。

そもそも執政家には私兵を養う程の金が無い。

勿論為政者である執政には公務に必要な経費を国庫から拠出されてはいるが、私財という点で言えば執政家は、ミナス・ティリス諸家の中でも最も蓄財に乏しい家門のひとつなのである。

デネソールが諸家の私兵に当たる親衛隊を解散させたところで、国庫を潤す程の余剰金を、私財の内に捻出できる訳ではないのだ。

諸貴族が巨額な費用で私兵を雇うのと違い、デネソールの人となりに期待を掛け自ら志願して親衛隊員となった傭兵や自由騎士等は大侯に高額な報酬を求めたりはしないのである。

例え草伏の身であろうと、草伏には草伏なりの矜持というものがあるのだ。

だからこそ重臣達には彼らが目障りでならない。

重臣達が束になっても太刀打ちを許さぬデネソールの卓抜した智謀の所以が迅速にして正確な、他に凡そ類を見ない大侯の抜きん出た情報処理能力に由るものである事は重臣達とて充分解していたが、大侯のその能力を支える膨大な情報を提供する一翼を親衛隊が担っている事も彼らはまたよく弁えていた。

大侯の情報源としてはヘンネス・アンヌーンに常駐する偵察隊も挙げられるが、彼等は主に東方の警戒に当たっており、自ずと行動範囲は制限される。

それに対しデネソールの親衛隊は、通常言われる“親衛隊”とは異なり隠密・密偵に近い存在である。

彼等は中つ国全土に散らばり、広範な情報を収集する。

ヘンネス・アンヌーンの偵察隊を率いる執政家の次男と大侯の不仲は周知の事実である為、親衛隊を解散させ最も貴重な情報源を断ち、大侯の力を削ぐ事を重臣達は狙ったのである。

彼等にとってはデネソールがその条件を呑むか呑まないかだけが問題だった。

果たして、デネソールはその条件を呑んだ。

半年前、ミナス・ティリスの情勢を探らせていた部下からの報告で、親衛隊解散の顛末を知ったファラミアは、即座に重臣達の考えを察し眉根に深い皺を寄せたものだった。

日毎に濃くなる東からの影に祖国の行く末を案じ、忠心を以て祖国と民とに身を捧げんとすべき立場にある彼等が、今だ既得権益を巡る政争に執着し、国政の場で発言権を増す事にのみ腐心する姿は度し難いものであったからだ。

だが皮肉な事に、それは思い設けぬ漁夫の利をファラミアに齎した。

親衛隊が解散した後も中つ国各所で独自に情報を収集した傭兵や自由騎士達は、ファラミアを通じその情報が大侯に伝わる事を期し、近在の町や村で顔を会わせるヘンネス・アンヌーンの野伏達に収集した情報を託したからである。

そもそも親衛隊員との肩書を付されていた時でさえ、都の上層階など滅多に寄り付かなかった彼等にしてみれば、正規軍の近衛兵より村の酒場や町の娼館で顔を合わせる野伏の方が余程気心が知れていた。

親衛隊が解散した以上大侯に直接情報を届ける訳にはいかずとも、大侯を信奉する彼等の忠義は揺らがなかったのだ。

一方野伏達の方でも彼等の情報提供は歓迎された。

近衛の遊軍である彼等は東からの影が濃くなるに従い、東方への警戒を強化する必要に迫られ、ヘンネス・アンヌーン近郊から身動きする事こともままならず、広範な情報を収集出来ずにいる状況に不安を募らせていたからである。

伝承に通じる野伏達は闇の勢力が発する凶兆を鋭く嗅ぎ分ける能力に優れてはいるが、それは彼等の間で長年培われてきた、謂わば“勘”という類のものだ。

遊軍とはいえ近衛に属する兵卒の身とあっては“勘”に因る懸念のみで軍の上層部に敵への防備を進言する事は躊躇われた。

それ故野伏達は、彼等の“勘”に容を与え、上官の心証に訴えるだけの根拠を必要としたのである。

その点長くデネソールの親衛隊を務めた傭兵や自由騎士達の提供した情報に抜かりはなかった。

彼等は主観を交えぬ中つ国各所で囁かれる些細な噂や、日常の生活に潜む僅かな変調の兆しを細大漏らさず洗い浚い掬い上げる術を心得ていたのだ。

傭兵等の情報と野伏達の嗅覚が結びついた結果、敵勢力の内に潜む巨大な影が見出されたのである。

 

ファラミアの前にはその内容を記した報告書が広げられていた。

父に先んじてこの情報を得た事は千載一遇の好機である。

情報の確度としては強い懸念を示す以上には至らぬものの、父の先手を取る事で、敵軍の新たな動向に対し都の防備を強化する為と、父に対し有利な立場でファラミアが正規軍復帰を主張する正当性の根拠にはなり得るものだろう。

そうと意を決すれば一刻の猶予もならなかった。

父の事なれば例え親衛隊を失おうと、時を置けば何某かの策を講じこ、の情報を掴み得る事は想像に難くない。

ファラミアは机の上に広げた羊皮紙を巻き、立ち上がった。

 

「何と!従士もお連れにならず単騎でと申されるか⁉」

そう目を剥いた老副官に、ファラミアは覚えず苦笑を浮かべたが、次の瞬間

「事は急を要するのだ」

と敢えて口元の笑みを消し、表情を引き締めてそう言った。

「単騎であれば直ぐにも発てよう。

 何より此度はどうあっても父上にお会い致さねばならぬのだ。

 都に入るお許しを頂けねば無理にでも罷り通る。

 斯様に無謀な所業の巻き添えとなる者を伴う訳には参らぬ」

トゥランバールは上官のその言葉を聞き終えるや「善哉、善哉」と破顔一笑した。

「さればファラミア様のお留守はこのトゥランバールめが確とお護り致しましょうぞ」

 

ミナス・ティリスへと馬を走らせる背に日射しを受けながら、ファラミアは焦燥にも似た不安に追い立てられていた。

確証を得るまでには至らぬ情報ではあるが、さりとて放置し対策が遅れれば、最もその類が及ぶのは、常に敵の最前線に立つボロミアに他ならない。

幸い今は同盟強化を協議する為、ボロミアはローハンに出向いている。

だが、再びボロミアが前線へと戻るまでには、敵の動向を父に伝えた上で、一刻も早く対抗措置を取る様に進言しなければならない。

ファラミアは口元を引き締めると、ぐっと状態を倒し、愛馬の腹に拍車をかけたのだった。

 

昼過ぎに都の大門に馬を付けたファラミアは、門を護る衛兵の前で、ひらりと馬から飛び降りた。

父に目通りを取り次ぐよう兵に向かってファラミアが口を開き掛けた時、大門の扉が開き

「ファラミア」

と呼び掛ける声と共に、馬上高くに輝く笑顔の人が現れた。

「…兄上…」

瞬時言葉を失ったファラミアは

「…ローハンに…いらっしゃっていらしたのでは…?」

そう掠れた声を絞り出した。

「うむ…」

と、僅かに眉を曇らせたボロミアの後ろから

「ご無沙汰致しております、ファラミア様」

そう穏やかな声で姿を見せたのは、ファラミアにも馴染みのあるボロミアの副官・グウィンドールだった。

馬丁を従えたグウィンドールが上官に視線を送ると、“白の塔の総大将”の顔に戻ったボロミアが

「馬は馬丁に預けて行け。

 中でフーリンが待っておる」

ファラミアに向き直ってそう言った。

 

“帰ったらゆっくり話そう”

そう言い置いてロスサールナッハに向かったボロミア主従を見送り、1年半ぶりで都の大門を潜ったファラミアを持っていたのは前任者の退官に依って鍵鑰主管長に任官された、ひょろりと丈高い男だった。

ファラミアにも見覚えのあるフーリンというその男は、新任の慣れぬ役目に緊張した面持ちで

「大侯閣下より、ご帰着の辞儀はご無用とのお言伝を承っております」

と生真面目な口調で告げ、ファラミアに1本の鍵を差し出した。

「“成すべき事の答えを得よ”

 それが閣下の御言葉です」

“成すべき事の答えを得よ…”

受け取った鍵に視線を落としたファラミアは、得体の知れぬ不安な影が胸中を過るのを感じたのだった。

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