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三点の力学(後編) 5

 

剣の鍔を鞘に打ち付ける音が漸く収まる頃、山の端を染める日の光は黄金色にローハンの平原を照らしていた。

上気した頬で兄を見詰めていたエオウィンが感極まった声で「兄上…」と呼んだ時兵の一人が言った。

「姫も我等と共に今から東谷に参ろうではありませぬか」

兵等は口々にその兵に賛同の意を示す。

「今から王城に向かえば夜半となりましょう」

「単騎での騎行は危険を伴います」

「我等と共に明朝エオメル殿を見送りましょうぞ」

にこにこと人の好い笑顔をエオウィンに向けるロヒアリム達の言葉はエオウィンの胸を熱くさせる。

「皆様方…」

声を詰まらせたエオウィンに頷きかけた兄の笑顔を目にした瞬間には心も揺れた。

だが胸に当てた手が革鎧に染め抜かれた白の木の紋章に触れた時、エオウィンは、はっと掌を握り締めた。

「皆様のお心は真にありがたく存じます。

 されど私は殿下とお約束したのです。

 必ず今宵のうちにメドゥセルドに戻ると。

 この革鎧にかけて」

 

 

その革鎧はセオドレドの初陣に際し、同盟の証としてゴンドールから贈られた物だった。

 

それに気づいた時エオウィンは、一気に革の重みが増した様に感じ身を固くした。

だがセオドレド自身は

「使ってこその武具だ。

 決して派手ではないが、実に丁寧な仕事が成された良い鎧故、櫃の中に寝かせておいては鎧が泣こう」

と笑った。

「その鎧に頼らずとも、私とボロミアの間に結ばれた信義こそがローハンとゴンドールの同盟そのものに他ならぬ。

 我等の生あるうちにこの同盟が揺らぐ事はない」

エオウィンはセオドレドのその言葉に目を瞠った。

誰が何と言おうと、やはりこの従兄は一国の世継ぎに足る傑出した人物なのだと改めて思う。

 

今、この中つ国の人の国が東からの影に抗し得ているのは、偏に堅固たる東境の盾となりたるゴンドールが、人の国の守り手として一身にその重責を担っているからである。

然るにその守り手たるゴンドールと同盟を結ぶ隣国の王セオデンは、いつの頃からか、還り給わぬ王に代わり白き都を預かる執政デネソールと疎遠となり、加えて彼の執政が忌み嫌う西方より遣わされた賢者の一人、“灰色の放浪者”と呼ばれる魔法使いと親交を深めていた。

その状況を鑑みればローハンとゴンドールの古き盟約は、いつ失われても不思議ではなかった。

にも関わらず二国の同盟に綻びが生じぬは、実に二国の後継であるセオドレドとボロミアの深く揺るぎない信義と友愛の情に依るのである。

“万一お二人によもやの事あらば…”

ふと脳裏を翳めた考えを、エオウィンは慌てて振り払った。

“我等ローハンの民は西方の恩寵を賜る事なき唯人だけど”

エオウィンは鎧に染め抜かれた白の木の紋章を見て思う。

“だからこそ命に代えても信義を守り抜く事を唯人の誇りとして胸に抱いている。

 私もローハンの民だもの。

 このお役目、必ずや成し遂げて見せるわ“

 

決意を新たに、表情を引き締めた従妹にセオドレドは床板を跳ね上げ、隠し通路を示して見せた。

 

城外に出る際

「この様な隠し通路を私にお教えになって宜しかったのですか?

 私もこれからはセオドレド様の様にお城を抜け出すかもしれませんよ」

そう悪戯っぽく言ったエオウィンに

「そなたは抜け出したりせぬさ」

と、セオドレドはきっばりと言った。

「私もエオメルも居なくなった後、誰が毒蛇どもの牙から王をお守りするのだ?」

あっと息を飲んだエオウィンには

「そなたがふて腐れて部屋から出て来ぬと申し上げただけで父上は大層案じておられるのだ」

従兄のその言葉が深く胸に突き刺さった。

両親亡き後、兄と自分を黄金館に引き取ってくれた伯父は、これが本当にあの母と血を分けた兄という人なのだろうかと思うほど、惜しみなく温かな愛情を注いで育ててくれた。

エオウィンにとっては亡き両親以上に、セオデンこそが父だったのだ。

その伯父の現状に思い至っていなかった自分自身が恥ずかしかった。

それ故セオドレドの

「必ず今宵のうちに戻って参れ。

 そなたが明朝の朝餉にも顔を出さぬとなれば、父上がどれ程ご案じなさるか、決して忘れるでないぞ」

という言葉に、迷いなく頷いた。

「必ず戻ります」

 

 

「それ故私は戻ります。

 毒蛇の牙から、私が王をお守りします」

真っ直ぐに兄を見詰めて言うエオウィンを見返すエオメルの瞳に温かな光が満ちる。

エオメルは、すっと馬腹をエオウィンの前に回すと妹の肩に手を掛け、晴れやかな声で言った。

「兄は今日ほどお前を誇りに思った事はないぞ、エオウィン」

「兄上…」

 

とその時、兄妹を囲むロヒアリム達から「エオウィン!エオウィン!」と声が上がり、驚いて周りを見回したエオウィンに、ロヒアリム達は「エオウィン!エオウィン!」と高らかに繰り返し、弾ける様な笑顔を見せた。

肩に置かれた兄の手に力が籠るのを感じ、潤んだ瞳を兄に向けたエオウィンは、視線の先で誇らし気に輝く兄の笑顔を目にし、湧き上がる幸福感で胸が一杯になるのを感じずにはいられなかった。

 

 

それから3日後、ミナス・ティリスの大門を、ローハンの使者が駆け抜けたのは、西の空が茜色に染まる頃だった。

 

エオメルが官邸の控えの間に通されて程なくすると、勢いよく部屋の扉が開き、白の塔の総大将が息を弾ませて部屋に駆け込んで来た。

驚いて立ち上がろうとするエオメルを制し、エオメルが座る長椅子の傍に腰を下ろしたボロミアは俄かにエオメルの手を取ると、真剣な面持ちで言った。

「火急の使者としてセオドレド殿の書状を携えて来られたとか。

 お顔の色がすぐれぬ様にお見受けするが、大層無理をされたのではあるまいか」

そう気遣わし気な緑玉の瞳で覗き込まれ、エオメルは無用な熱が頬に上るのを感じる。

「だ…大事ありませぬっ!ご心配いただき…あの…」

と、しどろもどろになるエオメルは、危うく本来の目的を忘れそうになり、慌てて気持ちを引き締め長椅子の前に置かれた机に乗せた羊皮紙に視線を走らせた。

エオメルの視線に気付き握っていた手を離したボロミアの指先に内心未練を残しつつ、エオメルはセオドレドからの親書をボロミアに差し出した。

 

親書に目を通したボロミアはぐっと眉間に皺を寄せると

「暫し待たれよ」

とエオメルに言い置き、控えの間を後にした。

 

官邸の執務室ではゴンドールの執政デネソールが嫡男から受け取った親書を読み終え、執務机の上に真新しい羊皮紙を広げていた。

「して?」

と問うデネソールの声に、執政の嫡男は間髪入れずに即答する。

「角笛城に参ります」

羊皮紙に羽根ペンを走らせながらデネソールは更に問う。

「ローハンの跳ね返りめが確証なき事と申す上は秘密裏の行動を求めるは必定。

 角笛城までは何程行軍を急ごうと6日は掛かる長途。

 然るに合戦となる確証はない。

 6日を踏破し角笛城に至し後に戦なかりせば、兵等の行軍は徒労に終わると承知の上か?」

「無論承知の上です」

揺るぎない嫡男の声に羽根ペンを持つ手を上げたデネソールは目を細める。

「人の子であらば過ちも手抜かりもありましょう。

 されどセオドレド殿は故無く友に頼ろうとなさる様なお方ではございませぬ。

 確証はなくとも確信あっての事と存じ居ります」

「では継嗣に信を置いた上での仕儀はその身に責を負うと申すのだな」

「元よりその覚悟でございます」

ボロミアの声は決して揺らがない。

「どうあっても継嗣の言を信じるか」

「信じます」

嫡男の言葉にデネソールの口元が微かな笑みを象る。

「よかろう。

 そなたの好きにするがよい」

ボロミアの顔に浮かんだ日の射す様な笑みは次の瞬間固く引き締まり、乾いた唇を舐める赤い舌がちらりと覗いた。

口を開きかけた嫡男のその切先を制しデネソールは言う。

「行軍の糧食は執政家の倉から充てよ」

「父上っ!」

父の言葉にボロミアの表情がぱっと輝く。

「正史に記せぬ行軍に軍部の備蓄を割くわけにはいくまい。

 とは言え当家の食糧倉も豊かとは言えぬ故4日分が精々というところだ。

 だがローハンの跳ね返りめが子飼いの若駒を使いに立てたるは目算あっての事であろう。

 復路の糧食は継嗣めからたっぷりせしめて戻るがよいぞ」

デネソールはそうにやりと笑った。

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