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名にし負う、王と呼ばるる 5  -誓約-

 

 

名にし負う

王と呼ばるる我が君に

捧げた誠のありければ

虚しき望月

添い伏しの夜

 

 

中つ国 第3紀 2980年 初夏

 

「ボロミア」

鈴を振る様な涼やかな声が執政館の玄関広間に響き、とてとてと頼りない足取りで歩いて来た執政家の幼い後継は、ソロンギルにぶつかる寸でに足を止め、声の主を振り返った。

くるりと向きを変えあどけない笑顔で母に向かって駆け出す幼子の小さな背中を、遣る瀬無い気持ちで見送ったソロンギルに、我が子を抱き上げた幼子の母、フィンドゥイラスが屈託のない笑顔を向けて言った。

「何か失礼はありませんでしたかしら?

 少し目を離すと何処にでも駆けて行ってしまって」

「大事有りませぬ。

 お気遣い無用です」

そう答えたソロンギルは、小首を傾げるフィンドゥイラスの様子に、少々声が尖ったかもしれぬ、と内心小さく舌打ちした。

ボロミアの事となると、どうにも普段の調子が狂う。

特にフィンドゥイラスが相手だと分が悪い。

立ち回りの上手さには絶対の自信を持つソロンギルが、つい本音を漏らしてしまう。

ぐっと気を引き締め、“人望篤い客将”の仮面を付け直したソロンギルは、そつのない笑顔で

「デネソール殿にお伝えしたき義があり参りました」

と穏やかな声で言った。

その時

「何か」

と、正面階段の段上から玄関広間に青銅の鐘を打つ様な声が降りてきた。

見上げるとそこに、執政家の丈高い嫡男が姿を現している。

振り返った奥方の腕に抱かれた幼い公子が、瞳を輝かせて父に手を伸ばす姿を目にした

ソロンギルの胸に、じりっと焼ける様な痛みが走る。

段上から降りてきた父に抱き上げられ「きゃあ」と愛らしい声を上げた我が子に弾ける様な笑顔を向けられたその男を、妬ましい、とソロンギルは思った。

心底妬ましい、と。

 

2年前、執政家の嫡男デネソールと妻フィンドゥイラスの間に生まれた執政家の後継となる公子ボロミアは、両親から受け継いだ透ける様に白い肌と、母親譲りの金の髪に碧の瞳を持つ、それはそれは愛らしい赤子だった。

重臣達にお披露目されたボロミアを目にした瞬間、ソロンギルはその碧の瞳から目が離せなくなった。

それからは寝ても覚めてもボロミアの事が気になった。

勿論、夢中になったのはソロンギルだけではない。

娘を持つ重臣達は挙って我が娘を公子の許嫁に、と騒ぎ立てた。

しかしその熱狂は長くは続かなかった。

5日経っても10日経っても、ボロミアの中に“西方の血に継がれる恩寵”の兆しが見えなかったからである。

重臣達の関心は、潮が引く様に失われた。

期待が大きかっただけに反動は凄まじかった。

直ぐにボロミアを廃嫡せよとの声が重臣達から上がった。

次にこれは西方の恩寵を受けぬ母方の血に因るもの故フィンドゥイラスを離縁し、嫡男は西方の恩寵を受けた新たな奥方を迎えるべきだとの進言が相次いだ。

だが重臣達が声を上げる程、民意は彼等から遠ざかった。

ゴンドールの民は誰一人例外なく、ボロミアを愛していたからだ。

執政家に生まれながら彼等と同じ“西方の恩寵を受けぬ”ボロミアは、誰にとっても等しく“我等の愛し子”だったのだ。

時を同じくして民等のその声を背景に、デネソールの信奉者である下級の官吏で構成される改革派の文官達が台頭し始めた。

ゴンドールの国政は紛糾した。

中でも特に熱烈なデネソールの信奉者であり、改革派唯一と言ってもよい名家の当主にして若くして重臣となったブランディアは、「重臣方の姫君などボロミア様に相応しくない」と公言し、ボロミアの誕生からひと月余り遅れて生まれた彼自身の娘を、是が非でもボロミアの許嫁にすると息巻いた。

“ボロミアの許嫁”

ソロンギルはその言葉に苛立ちを感じ、苛立つ自分に愕然とした。

“生まれて間もない赤子に魅入られている”

嘗てない焦燥を感じたソロンギルは、ボロミアを避ける様になった。

だが避ければ尚更ボロミアの事が気に掛かった。

それまで意識などした事もなかった母方の血に備わる“先を見通す”という力が無自覚に呼び覚まされた。

すると美しい少年となったボロミアの姿が瞼の裏に浮かぶ様になった。

麗しい青年になったボロミアも、凛々しい武将となったボロミアも、細部までも現実感を伴って“視える”様になった。

夜の森らしき場所を背景に濡れた瞳で、縋る様な眼差しを自分に向けているボロミアの姿が眼前にちらついた時には、不覚にも下肢に溜まる熱を感じて酷く慌てた。

ソロンギルは混乱した。

有り得べからざる事態だった。

何と言っても現実のボロミアは、まだ生まれて幾らも経たぬ赤子なのである。

その赤子にあらぬ妄想を抱くなど、異常な事だ。

異常な事ではあるが、だからと言って想いの止むものではない。

ボロミアが2歳になろうかという頃には、もうどうにも認めざるを得なくなっていた。

“ボロミアを愛している”

それは当然、愛らしい幼子を慈しむ、といった様な意味合いではない。

そこには情動を伴う欲望が含まれている。

有体に言えば“あの子が欲しい”である。

確かに異常だ。

その相手は未だ2歳にも満たぬ男児なのだ。

その意味で言えば、勿論如何なソロンギルといえど、2歳にも満たぬボロミアをどうこうしようなど思っている訳ではない。

思っている訳ではないが、深夜密かに野伏の姿に身を窶し、人目を忍んで娼館に潜り込んでは金の髪を持つ男娼ばかりを買い漁る、などという行為は、本来女好きで鳴らしたソロンギルにとっては、やはり異常な行動ではあった。

ソロンギルの気持ちは、長持ちの底に放り込んだままになっている蛇の鍵にも向かった。

長持ちの底から鍵を探り出したソロンギルは、数年ぶりで“古き書庫”の扉を開けた。

 

“その部屋”は、机の上に開いたままの日誌まで、何一つ変わる事無く唯薄っすらと降り積もった埃だけが、時の流れを語っていた。

その埃を払って日誌を元あった書架に戻したソロンギルが数冊の書物をぱらぱらと捲っていた時、その中の1冊から薄い紙片がひらりと床に舞い落ちた。

然して厚くないその冊子を閉じ、床に落ちた紙片を拾い上げたソロンギルの顔には怪訝な表情が浮かぶ。

高々書付程度にしか見えぬにも関わらず、折り目をずらして畳まれたその紙片は、黒い封蝋で閉じられていたのだ。

そしてその封蝋には、鍵の意匠と同じ2匹の蛇が互いの尾を咬み合う図柄の印璽が捺されていた。

封蝋の横に古いゴンドールの言葉で記された走り書きに視線を走らせたソロンギルは、その冊子がエアルヌアの記した日誌である事を確かめて蝋燭の火をランプに移すと、椅子に腰を落ち着け、日誌の表紙を開いたのだった。

 

数日掛けて丹念にその日誌を読み終えたソロンギルは裏表紙を閉じた時、それまで見ていた世界が違うものになった様に感ぜられた。

その小部屋に集められた、公にされる事のないゴンドール歴代の王達が残した記録には、

玉座にあるひとりの男の苦悩が生々しく綴られている。

以前には然したる感慨を持たなかったミナルディルやテルメフタールにも、玉座に在る事で引き裂かれる“人として”の感情が見出された。

“王は常に執政を欲す”

集められた記録のどこかにその様な記述があった。

執政が王を求めているのではない

執政を求めているのは常に王の方だ

エアルヌアの日誌の中にひっそりと挟み込まれていた1枚の羊皮紙の切れ端。

その切れ端に綴られた“執政の声”が切なくソロンギルの胸を刺す。

 救いを、慰めを、温もりを

 常に王は執政に求めてきた

 玉座の孤独を癒す事が出来るのは

 ゴンドールの王にとって

 執政だけなのだ

ソロンギルは知った。

自分がボロミアに求めているものを。

自分を真っ直ぐに見詰める無垢な瞳

長い長い孤独を埋める光輝く笑顔

 救いを、慰めを、温もりを

 求めたのだ

 ボロミアに

その夜、ソロンギルは、ボロミアを想って、泣いた。

 

遥か先に祖国の王となる者を、西方人であるエアルヌアは“視た”のかも知れなかった。

王となる者が執政に抱く逃れられぬ運命を。

王家と執政家の間に取り交わされた密約に依り、ゴンドールの王達は彼等の執政を得た。

だが同時に歴代の王達はその殆どが密約に依って“臣下の務めとして、求める王に応える”執政達に苦しんだ。

王達の殆どが“臣下の務め”を執政に望んだのではなかったからだ。

では王としてではなくひとりの男として望めば、彼らが執政を得る事が出来たのかと言えば、残された記録を見る限り、それは叶わぬであろう、とソロンギルは思う。

歴代の執政達が王の求めに応えたのは“臣下の務め”としての密約があればこそであり、それ以外に彼等が王の求めに応える所以はないのだ。

勿論王に対する敬愛の情を彼等が抱かぬ訳ではない。

エアルヌアの執政であったマルディルが、留書に綴った身を引き裂く様な言葉はソロンギルの胸に深く刺さっている。

名にし負う

王と呼ばるる我が君に

捧げた誠のありければ

虚しき望月

添い伏しの夜

エアルヌアが記した書付の走り書きと相聞歌の体を成すマルディルのその留書は、彼が王を敬愛していればこその苦悩を示している。

その苦悩は王も同様である。

深く愛していればいる程、エアルヌアもまた自身のその想いがマルディルを苦しめているという事実に苦しんだ。

書物に親しむより屋外に出て野を駆ける事を好んだというエアルヌアは、名文家とは言い難かったが、その彼が月を眺めて報われぬ想いを走り書きした一節の句は、少なからずソロンギルの胸を打った。

 愛してるからこそ求めずにはいられない

 愛しているからこそ望み得ない

虚しき身を耐えて月を仰ぐエアルヌアの姿はそのまま今の自分の姿を引き写している。

日毎夜毎自分の中で大きく膨らんでゆくボロミアの存在を思うと、ソロンギルはもうこれ以上客将としてゴンドールに留まってはいられないと悟らざるを得なかった。

光の奥方が望んでいるのはゴンドールの客将ソロンギルではない。

このままソロンギルとしてゴンドールに留まる事を許さないだろう。

何より彼が玉座に就かずゴンドールに留まりたいと願う訳を知れば、その“訳”を排除しようとするのは火を見るよりも明らかだ。

それだけは何としてでも避けなければならない。

エルフの姫を妻とし、王としてゴンドールに還る

課された命に従う以外、選択の余地はない。

ボロミアを護る為に。

 

季節が春から初夏へと変わる頃、ゴンドールの評議会がペラルギアを荒らし回るウンバールの海賊討伐を決議し、その海戦で総指揮を執る事を任されたソロンギルは決意した。

 

明日はペラルギアへ出帆するという夜、ソロンギルはボロミアの居室を訪れた。

それより数日前に2歳を迎えたばかりのボロミアは流行病で伏せっており、それ故に海戦の総指揮がデネソールではなくソロンギルに任される事になったのだが、それは同時に、ミナス・ティリスを去る事をソロンギルに決意をさせたのだ。

ボロミアの居室に忍び入ったソロンギルは、熱に浮かされ荒い息を継ぐボロミアの上気した頬を目の当たりにし、胸のざわめきを覚えずにはいられない。

動揺を抑えながら煎じたアセラスの薬湯を幼い公子の口に含ませると、公子は薄っすらと潤んだ瞳を開く。

 その瞳の色に吸い込まれてしまう

 その瞳の色に溺れてしまう

ソロンギルがそう思った刹那、ボロミアの瞳は閉じられ、苦し気に継がれていた息が規則正しい静かな寝息へと変わった。

ほっと肩から力が抜けるのを感じながら、ソロンギルは公子のあどけない寝顔にじっと視線を注ぐ。

 きっとどんな事をしてでも欲しくなる

 手に入れたなら決して二度と手放せなくなる

ソロンギルにはそれが何より恐ろしかった。

「ボロミア…」

“例え我が身を捨ててでも”

ボロミアを起こさぬ様そっとその小さな手を取り、ソロンギルは誓った。

“そなたを護る

 誰の手からであろうとも“

ソロンギルは一心の想いを込め、公子の白い額に口付けた。

“そなたこそが唯一人

 我が生涯の想い人だ“

「愛している。

 ボロミア」

 

 

 

-了-

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