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名にし負う、王と呼ばるる 8  -遠恋-

 

 

この想いは距離を越え

夜の闇を駆けるだろう

想いだけを縁に生きる

私に誰がかなうだろう

 

 

中つ国 第3紀 3013年 夏

 

アラゴルンは幾度となく通った道を、迷う事無く闇の森を進んでスランドゥイルの館に向かった。

人であるアラゴルンとは時の捉え方が異なるエルフや魔法使いは、アラゴルンが“ソロンギル”の仮面を捨て33年が経つ今も尚、“野伏の馳夫”のまま中つ国を流離っている事に深刻な疑念を抱いている様には見受けられない。

灰色の魔法使いに至っては“苦難に耐え、黒の勢力に備えるアラゴルンの働き”に賞賛さえ惜しまない。

イスタリの長である白の魔法使いに関しても、時に哀し気な溜息を吐く事はあっても、彼の言動に見え隠れする暗い影を疑おうとはしなかった。

その人の好いミスランディアの横顔に多少の後ろめたさを感じぬではなかったが、さりとてアラゴルンは自ら行動を起こそうとはしなかった。

“玉座に就くべき功業を成す”

それが定められた道なのだとすれば、自ら行動せずともいずれ時は動くのだ。

ならばせめてその時まで、我が身に降りかかる真の意味での“苦難の道”を、アラゴルンは遠ざけておきたかったのだ。

時折光の奥方が見せる腹の内の読めぬ嫋やかな微笑みだけが気掛かりではあったが、奥方は夕星姫とアラゴルンが婚姻の誓いを交わした時を境にロスロリアンに隠棲し、以来沈黙を守っている。

そうである以上、アラゴルンとしては“触らぬ神に祟りなし”を決め込むだけだ。

そして裂け谷もまた、アルウェンの存在を考えれば自然と足は遠退いた。

自然、エルフ達の情報を得る為には、専ら闇の森を頼る事となった。

但しその闇の森を統べるエルフの王、スランドゥイルの息子であるレゴラスは、なかなかに侮り難い存在だった。

腹の内が読めぬ、という点ではガラドリエルと双璧を成すが、しかしその王子は、不思議な事に他のエルフ達程に人という種族を見下す、というところが見受けられなかった。

その所以はどうやら五軍の戦いの頃に有る様だったが、レゴラスはその訳を語ろうとはせず、アラゴルンもまた問わないまま、種族を越えた奇妙な友誼だけが唯途切れる事無く続いていた。

 

その日も闇の森を訪ねたアラゴルンを、人の領国である谷間の国から帰ったばかりだというレゴラスが出迎えたのだが、彼はアラゴルンの顔を見るなり

「人というのは不思議な種族だな」

と笑った。

「あなた達人というのは離れた相手に夢の中で会えるだろう?

 我等エルフにも出来ぬ大した芸当だ」

しかし王子のその言葉はアラゴルンを当惑させた。

正直なところ唯一の近しい血縁者である母ですら結び付きの薄いアラゴルンには、“夢で会う”と言い交す程近しい“人”という種族の知人はない。

会えるものならボロミアに会いたいところだが、そもそもボロミアの方がアラゴルンを認識していない現状では、言い交すどころかボロミアにとってアラゴルンは、この世に存在していないも同然なのだ。

「私はその様な話を聞いた事がないが」

素っ気なくそう言ったアラゴルンに、レゴラスは「ふぅん」とつまらなさそうに口を尖らせ、緑の葉を1枚手に取って言う。

「じゃあ、人の夢の中に入れるっていうのはただ人だけなのかな。

 エルフである私も、西方人であるあなたも知らないんだからね」

「夢の中に…入る?」

手にした葉を日の光に透かし見ながらレゴラスは

「そういう事だろう?

 谷間の国で旅に出る男が恋人に“夢で会おう”というのを見たんだ。

 私にはその言葉の意味が分からなかったが、男が言うには、会いたい気持ちさえあれば夢の中にでも相手を訪う事が出来るというのだ。

 何とも不思議な話ではないか?」

くるり、と人懐こい空色の瞳をアラゴルンに向け、レゴラスはそう笑った。

「谷間の国に住んでいるのはただ人だけだ。

 彼等がどうやって夢の中で愛する者と会うのか…気にならないかい?」

レゴラスの言葉を上の空で聞きながら、アラゴルンの頭の中では

“夢で会う…、夢の中に…入る?”

その言葉だけが激しく渦巻いていた。

 

闇の森を早々に出立して谷間の国に入ったアラゴルンは、出会った国人達に片っ端から“夢で会う”為の術を聞いて回った。

しかし聞かれた谷間の国の国人達は皆互いに顔を見合わせて首を傾げた。

彼等にとってそれは術でも技でもないからだ。

ただ人である彼等にとって“夢で会う”とは、人と人との繋がりを確かめる為の言葉であり、人を想う気持ちが昂じた結果でそうなればという望みである。

実際に愛する者と夢で会ったと証明する事が出来る者はいない。

そうと知ったアラゴルンは失望を禁じえず、がっくりと肩を落とした。

だが同時に人を想う気持ちが昂じる事で“夢で会う”のが叶う事なのであれば、それを試さずにはいられない思いも抑え難かった。

それ故アラゴルンは荒地の国を抜けミナス・ティリスに向かった。

 

15年前行商人に姿を借りてミナス・ティリスに入った時、素性を隠し遂せた事に味をしめて以来、アラゴルンは幾度かその都に足を踏み入れている。

その都度行商人や吟遊詩人、自由騎士などに身を窶していたアラゴルンは、この時吟遊詩人の姿を取った。

その吟遊詩人が白き都に入った時、季節は秋になっており、収穫の賑わいに沸く城下では、多少胡散臭い風体の吟遊詩人が紛れ込んだところで訝しがる者はいなかった。

翌日その都では、一種の年中行事の様になっている恒例のひと騒動が持ち上がった。

ローハンの継嗣が単騎ミナス・ティリスの大門を潜って駆け込んで来たのだ。

市が立ち並ぶ都の大路を駆け抜ける世継の姿に、彼の無鉄砲ぶりには慣れっこになっているミナス・ティリスの民等でさえも、流石にこれは何事かと目を丸くした。

しかし翌日になると第7階層に通う下働きの者や下級の兵から“いつも通り”の世継と弟君に拠るボロミア争奪戦の顛末が下層階の民等に伝えられ、収穫の賑わいと共にその噂は、密かに、速やかに、下層階の民等の間に広まった。

その噂が余所者であるアラゴルンの耳に届くには更に1日を要したが、それを聞いてはアラゴルンも落ち着いてはいられない。

ボロミアの側近くに2人も危うい人物が張り付いているかと思うと気が気ではなく、おちおち休んではいられない気持ちだった。

寝付かれぬまま深更となり、遂にアラゴルンは眠る事を諦めた。

寝台から降り、宿の窓辺から第7階層を見上げて一心にボロミアを想ったその時、アラゴルンはふっと意識が遠のくのを感じた。

 

気付くとアラゴルンは見知らぬ瀟洒な部屋の中に立っていた。

そしてその部屋の寝台には安らかな寝息を立てるボロミアの姿が在った。

“あっ”と思った瞬間、アラゴルンは再び宿の窓辺に在って第7階層を見上げている自分に気が付いた。

窓枠を持つ指先が震えていた。

“視る力”を行使して“視た”のではない。

決して幻影などでもない。

確かにボロミアの息遣いを感じた。

“確かに…ボロミアの…”

そしてアラゴルンは意識を失った。

 

気が付いた時には既に日は高くなっていた。

窓枠を掴んで立ち上がったアラゴルンが宿の窓から見下ろすと、丁度都の大路をセオドレドがローハンの兵等に引っ立てられる様に大門に向かうところだった。

それを見てアラゴルンが宿から外に出た時、ローハンの世継は大門を出ていくとこであったのだが、そこへ世継を追う様に、愛馬を駆るボロミアが上層階から降りて来た。

「セオドレド殿!」

その声にローハンの一行が足を止め、兵に囲まれたセオドレドが振り返って笑顔を見せた。

「また来るからな、ボロミア」

「殿下」と老副官に睨まれ、苦笑気味に肩を竦ませて引き摺られていくセオドレドを見送るボロミアの背に、その時

「兄上」

と控え目な声が掛けられた。

振り返ったボロミアが馬上の弟に向かい

「知らせてくれば好かったものを。

 セオドレド殿とろくに別れの挨拶も交わせなんだ」

そう幾分拗ねた口調で言うと弟は

「申し訳ありません。

 軍議のお邪魔をしてはと思い…」

と、沈んだ声で答えた。

その声に慌てて馬首を返したボロミアが

「責めているのではない。

 突然の御来着で父上も私もなかなかセオドレド殿のお相手をする時間が取れずにいた故、そなたが折よく都に戻っていてくれて助かったのだ。

 寧ろそなたには礼を言わねばならぬくらいだ」

そう弟の隣に馬を進めて肩に手を掛けた時、視線を落としていたその弟が微かにほくそ笑むのを、アラゴルンは見逃さなかった。

“この男…食えぬ”

その瞬間、“その男”の視線が鋭くアラゴルンの方向に向けられた。

アラゴルンはその視線を避け、素早く街路に集まる民衆の間に身を潜めた。

弟卿の視線は暫しアラゴルンの立っていた痕跡の上を彷徨ったが、その僅かの間にも市民に囲まれ手渡された秋の収穫物を両手一杯に抱えた兄の姿に気付くと、一気に表情を綻ばせて言ったのだった。

「少しお持ちしましょう、兄上。

 それでは手綱もお取りになられませんでしょう」

「助かる、ファラミア。

 少々これを預かってくれぬか」

そう言いながら弟に収穫物を渡すボロミアの笑顔は、どこまでも屈託なく、明るく澄んでいた。

 

その夜アラゴルンは再びボロミアの居室に立った。

しかし彼の感覚は真綿に包まれた様に鈍く、周りの音はぼんやりとしか聞こえなかった。

アラゴルンは自らが実体を伴わない存在としてそこに在る事に気付いていた。

眼下の寝台に向かって伸ばした手の、透明に透ける手の甲を通して、寝台の上で眠るボロミアの姿が見える。

慎重にそっと彼のその白い頬に触れたアラゴルンの指先には、触れている実感は乏しかった。

それでも憑かれた様にすうっと頬の輪郭をなぞると、僅かに眉根を寄せたボロミアが、小さく息を吐き、微かに身じろいだ。

鼓動が跳ね上がるのを感じ、はっと手を引いたアラゴルンが気付いた時、そこは真昼の日差しが差し込む宿屋の寝台の上だった。

 

アラゴルンは疲労困憊した体で寝台の上に身を起こしたが、その疲労感に反し、心は抑え難い高揚感に沸き立っていた。

ほんの僅か指先に残るボロミアの肌の感触、身じろいだボロミアの微かな息遣い、それら全てがどうしようもなくアラゴルンを幸せな心持ちにさせずにはおかなかった。

 

宿から出たアラゴルンは、既にファラミアがヘンネス・アンヌーンに発った事を知り、酒場に入ってエールを注文した。

真昼の酒場ではここ最近都を騒がせている噂に尾ひれはひれが付き、大っぴらな酒の肴となっていたが、その噂を背中に聞きながらエールを舐めるアラゴルンは高揚した気分に酔っていた。

吟遊詩人の姿を借りたアラゴルンは酔いに任せて竪琴を奏で、中つ国で広く知られた昔語り“白金の騎士”を準えた俗歌を歌った。

歌が終わると酒場に居た客達から万雷の拍手が起こった。

酔ったアラゴルンは請われるまま幾度もその俗歌を歌い、奢られるに任せて杯を重ねた。

そして遂にその場で酔い潰れた。

 

翌朝アラゴルンが目を覚ましたのは酒場の2階の部屋だった。

アラゴルンを起こした酒場の親父は直ぐに都を発つ方が良いとアラゴルンに告げた。

昨日アラゴルンが歌った俗歌はあっという間に客の間で評判になったのだが、内容が内容なだけに、万一上層階に伝わり重臣にでも知れては拙い事になるのでは、と言うのだ。

アラゴルンは気のいい酒場の親父に礼を言うと、ミナス・ティリスを後にして西のローハンに向かった。

 

西に向かった訳はローハンがただ人の国だからだ。

エルフにも西方人にも伝わらぬ“夢で会う”という言葉は、ただ人の国である谷間の国だけに伝わっていた。

ならば同じただ人の国であるローハンにも同じ言葉が伝わっているやも知れぬ。

あの継嗣がそれを知っているのであれば放っておく訳にはいかぬ、とアラゴルンは考えたのである。

 

大西街道を西に進む道すがら、ローハンの領内で情報を集めながらアラゴルンはエドラスを目指した。

しかしアラゴルンのその行程より“白金の騎士”の俗歌の方が足が速かった。

アラゴルンがエドラスに着いた時、城下では既にその俗歌が評判になっていた。

エドラスに着くまでに“夢で会う”という言葉はローハンの領内で聞かれた事が無いという傍証を得ていたアラゴルンではあったが、継嗣もそれを承知しておらぬという裏付けが欲しかった。

その為、城下の酒場でセオドレドが“白金の騎士”の噂を聞き付け、ぜひその俗歌を聞いてみたいものだと言っていたと耳にし、自分がその俗歌を歌った者であると名乗った。

その思惑は図に当たり、翌日には黄金館からアラゴルンの許に使いの者が来た。

メドゥセルドの控えの間で継嗣を待つ間、アラゴルンは王宮の兵等にそれとなく、ローハンには“夢で会う”という古伝があるかと確かめたが、結局彼等に怪訝な表情を返されるだけで誰もその様な口授を知る者は見つからなかった。

一先ず安堵したアラゴルンは、それさえ確かめれば最早ローハンに用はなかったのだが、継嗣の前で吟遊詩人としての役割を果たした事で、思いもかけずセオドレドから大層な褒美を頂戴する事になり内心苦笑した。

 

その継嗣と弟卿がボロミアの争奪戦を繰り広げる南方を離れ北に向かう道程を、アラゴルンは自恃の気持ちに浸りながら悠々とした足取りで辿った。

“距離が何の問題になろう

 どれ程離れていようとも

 距離を超える想いがある

 側近くに在る何者よりも

 強い想いが、私にはある“

 

 

 

 

-了-

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