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三点の力学(後編) 12

 

「安心致せ」

とセオドレドは微笑んだ。

「そなたに免じ、あの者の処遇はよしなに致そう」

セオドレドのその言葉にほっとした様な笑顔を見せたボロミアの、到底よい年をした大人の男とは思われぬ無防備な笑顔に、セオドレドはつい可笑しくなってしまう。

我が身も然りであるが、ボロミアの父親であるゴンドールの大公と彼の次男が、皆同じ穴の狢である所以である。

三者三様に皆我こそがこの笑顔の最たる守り手となる事を切望しているのだ。

結果、互いに牽制し合った睨み合いの挙句、三つ巴の三竦みだ。

 

その時蝋燭が、芯の焦げる微かな音を立てた。

その音を耳にして机の上の手燭に目を向けたボロミアは、短くなった蝋燭を見遣り

「灯を替えて参りましょう」

と椅子から腰を浮かすのを制しセオドレドは言う。

「よい、私もそろそろ部屋に戻ろう。

 大公殿にご承知おき頂きたき儀は全てそなたに伝えた故」

 

 

今回の攻囲戦に於けるアイゼンガルドの動向については文書には残さぬ、とセオドレドは前置きした。

文書に残す事に因ってそれが後日ローハンの国内を二分する火種とならぬ様、ゴンドールとの共有が必要と考えられる、白の魔法使いに対する疑念は全て口伝でボロミアから大公デネソールに伝える事となったのである。

表情を引き締めたボロミアを見てセオドレドはにこりと笑う。

「そなたの親父殿であれば、此度の件を“西方から遣わされた賢者を掴まえ何を世迷言を”などと一笑に付しは致すまい。

 何しろ大公殿は、音に聞こえた魔法使い嫌いだ。

 灰色の何とか言う魔法使いを大音声で一喝し、ミナス・ティリスへの出入りを禁じたたという話は、我がローハンにも届いておるぞ」

「灰色のガンダルフ…、ミスランディア殿の事ですな」

ボロミアは小さくひとつ、溜息を零す。

「弟卿…ファラミアの事か?」

セオドレドの問いにボロミアの口元には哀し気な弱い笑みが浮かぶ。

「弟は…、ファラミアはミスランディア殿を師と仰いでおります故」

ボロミアを見る目を細め、セオドレドは言う。

「そう、そのミスランディアとやら言う魔法使いは、我がローハンにも時折ふらりとやって来るとエオメルが申しておった。

 私自身は常日頃城中を留守にする事が多い故その魔法使いに面識はないが、聞くところに依ればそのミスランディアとやら、オルサンクの魔法使いとは昵懇の仲であると言うではないか」

眉根を寄せたボロミアは苦し気な声で答える。

「確かに…その様に聞き及んでおります」

「ボロミア」

ボロミアはセオドレドの目を見ぬまま口早に言い募る。

「私もミスランディア殿が都を訪れる折には都を離れている事が常です故、面識があるとは申し難いのですが、ファラミアが師と仰ぐ御仁であれば…」

「ボロミア!」

いつになく鋭いセオドレドの声に、ボロミアは床に落としていた視線を上げる。

「私とてファラミアを信用しておらぬわけではない」

「セオドレド殿…」

「ファラミアを信用しておらぬ訳ではないが、さりとて魔法使いとやら言う輩に信を置いてもおらぬ。

 あれらの輩は、我等が及びも依らぬ怪しげな術を使いおる故油断がならぬ」

セオドレドはボロミアから目を逸らさずに言う。

「故に此度の件、決してファラミアの耳には入れてくれるなよ」

ぐっと言葉に詰まったボロミアの瞳を捉えたままセオドレドは語を継ぐ。

「これが我が身一つに係わる事なれば、私とてそなたにこの様な事を申そうとは思わぬ。

 なれどこの身は祖国の民に責を負うた身だ」

その揺るぎない言葉にボロミアは、黒い瞳のローハンの継嗣に捉えられた緑の瞳を逸らさず見返す。

「何よりまず私が為さねばならぬ事は、民の無事を護る事だ。

 万が一にも民に類の及ぶ危殆に、私自身が目を瞑る訳には参らぬ」

それまで強い口調を崩さなかったセオドレドは、ふ、とそこで悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「例えそなたに薄情者と恨まれようとも、な」

セオドレドのその言葉が終わるのを待たず、ボロミアは世継ぎの君の手を取ると、その手を強く握りしめた。

「私がセオドレド殿をお恨みするなど有り得ようはずもございませぬ。

 民を思うその御心を、どうして私に分からぬはずがございましょう」

「ボロミア…」

「未熟な振舞いでセオドレド殿のお心を煩わせた私の方こそが、どうぞお許し頂きたく存じます」

優婉な笑顔を浮かべたセオドレドは、空いた方の手をボロミアの手に重ねる。

「我らの間に許すも許さぬもない。

 そなたの瞳に宿る憂いの所以は承知致しておる」

「セオドレド殿」

「そなたの事だ。

 西方嫌いの親父殿と西方贔屓の弟卿の間に立ち、気苦労の耐える間がないであろう」

「気苦労とは思いませぬが…」

そう言葉を濁したボロミアは

「唯、あれ程までに秀でた父と弟を持ちながら、間を取り持つ事の出来ぬ我が身を歯痒くは思います」

と、翳の差す瞳を僅かに伏せた。

“それはそなたの所為ではなかろう”

喉元まで出かかったその言葉に代えセオドレドは、やれやれという表情で苦笑を零す。

いくらセオドレドが気に病むなと言ったところで、何でもかんでも一人で背負い込もうとするこの愛しの君には何の慰めにもならぬ事を、長い付き合いでセオドレドにはよく分かっていた。

「西方の血を濃く継ぐファラミアが、その血に連なる西方の者に惹かれるのは、分からぬでもないのです」

ボロミアは言った。

「血に備わる親しみや憧れに呼ばれるところもあるのでしょう」

“親しみや憧れか…。

 あの腹黒の君にその様な可愛らしいところがあろうとは思えぬがな“

強いて口に出さずにおくセオドレドのその胸の内の呟きにボロミアは気付かない。

「なれどファラミアより猶更に西方の血が濃いと言われておられる父上が、なぜあれ程までに西方より来たった者等を厭われるのか…。

 私にはそれが判りかねるのです」

憂いに沈むボロミアの伏し目がちな金の睫毛が仄明るい灯火に照らし出され、白い頬にくっきりと濃い影を落とす。

「魔法使いはもとより、高貴なる存在として知られるエルフでさえ、父上は蛇蝎の如く唾棄されておられるのです」

黙ってじっとボロミアを見詰めていたセオドレドが

「西方の血を継ぐ者の心持というものは私には分からぬが」

と、徐に口を開いた。

「そなたの親父殿がエルフを厭うという気持ちは分からぬでもない」

驚いた様に顔を上げた翡翠色の瞳の白の君に、星の瞬きを宿した透輝石の色の瞳の継嗣が微笑み掛ける。

「まあ、ただ私の場合、厭うというには当たらぬかもしれぬがな」

というセオドレドの

「だが私には、なぜ皆がそれ程までにエルフというものを羨み尊ぶのかが分からぬのだ」

との言にボロミアは目を瞠る。

「とこしなえに若く美しく、深き英知を以て道を過たず、高貴にして不死なる者がエルフというものだと言うが、道を過たぬというはそれ程尊ぶべき事なのであろうか?」

「セオドレド殿…?」

困惑した表情のボロミアに構わずセオドレドは語を継ぐ。

「正しき道のみ選んでおっては見えぬ景色などいくらでもあろう?

 過たねば分からぬ事とて多い。

 道など過たずして、人の世に何の面白味があろうというのだ?」

幾分憮然として言うセオドレドの様子に、ボロミアは唖然とする。

「不老不死というを羨むもそうだ。

 聞くところに依ればエルフというは、怪我をしても身体に傷一つ残らず、何百年、何千年行き様と、顔には皺一つ出来ぬというではないか。

 年相応の皺一つもない顔のどこが美しいのか、私にはさっぱり分からぬ。

 例えば私は」

とセオドレドは、ボロミアに重ねていた手をすっと上げ、丸く見開かれた緑の瞳の脇に、つ、とその指先を滑らせる。

「そなたのこの、笑い皺が好きだ」

瞬間ぴくりと身じろいだボロミアが、握り締めていたセオドレドの手を放しかけるのを逃さず、セオドレドは素早くその長い指を絡め取り、目許に置いた指をそのまますいっと胸元に運ぶと、今度はとん、とその指を胸に押し当て言う。

「この衣の下の戦傷も」

言いながらセオドレドは絡め取ったボロミアの手を表に返し、胸に押し当てていた指先を降ろすと、両の掌でボロミアの手を包み込む。

「剣胼胝のあるこの手も、だ」

艶やかに微笑んだセオドレドは、綺麗に丸く見開かれた緑柱石の瞳を真っ直ぐに覗き込んで言う。

「確かに人は弱い。

 未熟で愚かで間違いを犯す。

 だがそなたのこの剣胼胝は」

セオドレドは包み込んでいたボロミアの掌を指先でなぞり、その掌の剣胼胝を慰撫する様に口付ける。

「弱さを克服しようとするそなたの努力の証だ」

ボロミアの掌から目を上げ、再びその緑玉の瞳を捉えたセオドレドは、ボロミアの手に添えていた指先を胸元に伸ばし、再びとん、と胸に置く。

「そしてこの戦傷は、未熟さ故の過ちを繰り返さぬ様、そなたが得た教訓だ」

揺れる灯火の光を受け、しっとりと濡れた様に輝く黒水晶の瞳には、零れんばかりの艶が含まれている。

狙った獲物に忍び寄る肉食獣のしなやかさでボロミアに顔を寄せたセオドレドは、透明な翠玉の瞳から目を離さぬまま、胸元に置いた指を持ち上げ、ボロミアの白い頬に滑らせる。

「弱さも愚かさも過ちも、身を以て知らねばその痛みは分かるまい。

 負うた事なき傷の痛みを知れと申したところで、それは無理というものだ。

 死すべきさだめなきエルフには、愛する者を失う痛みは分かるまい」

ボロミアはセオドレドのその言葉にはっと息を飲む。

セオドレドもまた、生まれて間もなく、幼くして母を亡くした身なのである。

「とことわに老いる事なく生きるとは、引き延ばされ間延びした、いつ終わるとも知れぬ明日なき今日を、永劫に生きるという事であろう?

 我等定命の人の子は、限りある定められた命故、その命の愛わしさを知っている。

 然れば儚く逝った者等の為にこそ、我等は過去を越え明日に望みを託し、定められた時の限りを生きると思い定める事も出来ようものではないのか?」

ボロミアの頬を包んでいた指先をそっと目尻に滑らせたセオドレドは

「ボロミア」

と、囁く様な甘い声で言った。

「それ故私は、そなたのこの笑い皺が好きだ。

 人の持つ痛みを知って尚、光を失う事なく生きたそなたの“時”が、この皺には刻まれておる」

身じろぎもせずセオドレドを見詰めるボロミアの緑の瞳に映るセオドレドは、薄明り中で嫣然と微笑んでいる。

「この皺を刻んだそなたの顔をこそ美しいと、私は思う」

僅かに開かれたボロミアの唇を塞ぐ様に、セオドレドの唇が寄せ掛けられたその瞬間、黒い瞳の世継ぎの君は緑の瞳の愛しの君に、その力一杯で抱き締められた。

あまりの思い掛けなさに瞬きの間、抱き込まれた腕の中でセオドレドは、ぽかんと呆けた。

「セオドレド殿」

耳元で聞こえたボロミアのくぐもった声で我に返ったセオドレドが

“これでは立場が違う!”

と滅多になく慌て、急いで身を引こうとするが、ボロミアはセオドレドのその狼狽ぶりに気付かない。

「私はセオドレド殿を友とお呼びする事の出来るこの身を、この上なく誇りに思います」

身を引こうとしていたセオドレドは、その言葉に身じろぎを止める。

ボロミアの頬を伝う温かい涙、仄かに鼻孔を擽るボロミアの優しい香り、肩に触れる金の髪の柔らかな感触、それらの全てがセオドレドを抱き締めるボロミアの腕から伝わる温もりに溶け、希求の熱に勝る愛しさが、じんわりとセオドレドの胸の奥を温めた。

“敵わぬな、そなたには。

 全くどうにも、私はそなたに弱いらしい“

セオドレドは、そうして柔らかくボロミアの背に手を回した。

 

暫しの抱擁の後身を離したボロミアは、涙の跡が光る瞳をセオドレドに向け、言った。

「私もまたセオドレド殿に、友とお呼び頂けるに相応しくありたいと、そう願って止みませぬ」

するとセオドレドは、ボロミアの涙をその指先で拭い、夜目にも甘い、蕩ける様な笑顔で言った。

「何を申す。

 そなた以上に私に相応しい者など、この世のどこにもおろうものか」

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