がんばれ!ファラミア
~執政家に首ったけ~
初陣(前編) 4
憔悴しきって朝を迎えたファラミアは、邪念を振り払うべく一汗流そうと、早朝の教練所に向かった。
朝未だき、誰も居ないものと思っていた教練所の装具室に人の姿を認め、朝も早くから熱心な事だと、気楽な気持ちで着替え中の男の方に向かって歩みかけたファラミアは、それが誰か気付いた途端心臓が止まりそうになった。
あろう事か、それはボロミアその人であった。
ファラミアはそろそろと後退りし、兄に気付かれぬ様その場を立ち去ろうとした。
が、しかし
「ファラミア」
極力物音を立てぬ様細心の注意を払って漸く退いた装具室の入口で、そう朝の空気に相相応しい爽やかな兄の声音で呼び掛けられ、がっくりと肩を落とした。
しかし此処で、邪念に苛まれ一睡も出来なかった己の、どんよりと曇った顔を兄に見せる訳にはいかない。
咄嗟にファラミアは、清しい朝に似合いの笑顔を顔に貼り付け、如何にも爽快な朝を迎えた様な溌溂とした声音を取り繕って「おはようございます、兄上」と、にっこり微笑んだ。
「この様な早朝から鍛錬ですか?」
ファラミアは、不自然に見えぬ様震える膝を援けながら兄に歩み寄った。
「随分肉が落ちてしまった故昼間兵達の居る処で鍛錬しては、却って皆に気を遣わせてしまうからな」
ボロミアはそう言って僅かに苦笑した。
ファラミアは兄のその言葉に胸が締め付けられる思いがした。
“兄上はいつもそうなのだ”
ファラミアに「無理をし過ぎる」「気を遣い過ぎる」「我慢し過ぎる」と言って、何くれとなく思い遣ってくれる兄は、その実自分の方が余程無理をし過ぎて、気を遣い過ぎて、我慢し過ぎているのに、自分自身でその事に気付いてさえいないのだ。
暫し己の邪念をきれいさっぱり忘れていたファラミアは、以前と比べ幾分ほっそりした兄の、白い肩に浮き出た赤い星の形に目を留めた途端、そこから目を逸らす事が出来なくなった。
ファラミアのその様子に気付いたボロミアは“あっ”と思う間もなくファラミアをその滑らかな白い胸に抱き締めた。
瞬間固まったファラミアに「気にするなと言っておろう」と、兄は何処までも優しくそう言ったが、ファラミアにとってはそれどころではなかった。
さあっと血の気が引いた代わりに、一箇所に溜まる熱を感じ
“そんな馬鹿な”
と真っ白になり
“だめだ、だめだ、だめだ…!”
と自身を宥めるのに手一杯だった。
第一兄の傷口に目を奪われたのはその傷に心を痛めての事ではない。
無論、兄にその理由を知られる訳にはいかない。
兄はこれで良いのだ。
良いのだが、しかし自分はそうはいかない。
下手に身動きする事も出来ず、ファラミアは只管この甘い責苦に耐えた。
甘い檻に弟を囲っているなどという自覚の全くない兄は、暫しの後弟を解放し、何時もの様にくしゃくしゃと弟の髪を撫でると
「鍛錬も良いが、朝餉には遅れるなよ」
と、眩暈がしそうな程眩しい笑顔をファラミアに向け、さっさと部屋着に着替えると、何処までも爽やかに装具室を後にした。
兄の後姿を見送ったファラミアは、その場にへたへたと崩れ落ちた。
その日の午後、ファラミアは珍しく父・デネソールに呼び出された。
父と二人きりで顔を合わせるなどついぞない事に、ファラミアは得体の知れない緊張感を隠せなかった。
唯でさえ、ここ最近後ろ暗い処がないとは言えないファラミアにとって、父の“目”は内心少なからず脅威であった。
呼び出されたのは執務室ではなく、白き都が誇る広大な書庫の中でも滅多に人の入らぬ奥まった閲覧室であった。
“なぜこの様な所に?”
と訝しみながら閲覧室に入ったファラミアが、長らく人の立ち入った気配のない室内を見回していると、音もなく父が入って来た。
振り向いたファラミアは、侍従一人連れず影の様に佇む父の姿を認めて思わず息を飲んだが、デネソールは息子の様子には一切構わず「付いて参れ」とだけ言って部屋の奥に進んだ。
父は部屋の奥の壁の前に立ち止まると、手に提げた鍵束の中から一つ大きな鍵を取り出し、壁に彫られた竜の口の中に差し込むと、ガチャリと重い音を立てて錠を回した。
錠が空いた壁を押すと、長方形に切り取られた様に壁が動き、左手に空いた空間から下へと降りてゆく石段が現れた。
石段は人ひとりが通れる幅しかなく、ファラミアは手燭を持ったデネソールの後に従って石段を降りた。
石段の突き当たりに扉があり、デネソールは鍵束から2本目の鍵を取り出すと、その扉の鍵穴に差し込んだ。
小さく錠の空く音が聞こえ、デネソールは扉を開けて中に入った。
父に続いて部屋に入ったファラミアは、饐えた臭いのするその陰気な小部屋に寒気を覚えたが、父は表情ひとつ変えず、その部屋にただ一つある書棚の前に立ち、鍵束から取り出した最後の小さな鍵で書棚の戸を開けた。
音もなく開いた書棚の戸の中には長い年月を経て保管されていた事が見て取れる、幾つもの羊皮紙が並べられていた。
「本来これは執政家の嫡子にのみ受け継がれるべきものだ」
デネソールは言った。
思わず驚いて父を見上げたファラミアに見向きもせずデネソールは続けた。
「だが予はこれをボロミアに引き継ぐ気はない」
ファラミアはごくり、と息を飲んだ。
「この書を読めばそなたにもその意味は分かろう。
この様に穢れた王と執政の歴史は、忌まわしい西方の血に引き継がれた力を持つ者もののみが引き継げば良い。
この部屋の事もこの鍵の事も、そなたは決してボロミアに言ってはならん。
よいな、ファラミア」
デネソールはファラミアの手に3本の鍵の付いた鍵束を握らせ、部屋を出て行った。
ファラミアは手の中の鍵束に目を落とし、それから書棚に目を移すと、意を決してその書棚の前に立った。
夜、ファラミアの脳裏には隠された小部屋で目にした暗い歴史書の内容がこびり付き、眠れぬまま寝台に横になっていた。
僅か数枚の羊皮紙を見ただけでも、そこに書かれた王と執政の共謀による暗殺や謀略、王家と執政家の間に交された幾つもの淫猥な契約の歴史に怖気の立つ嫌悪を感じたが、中でも王と執政の間に交わされるという「忠誠の契約」には悍ましさの余り吐き気すら覚えた。
それは王権を守り執政家の造反を防ぐ為の契約で、執政、もしくは執政家の嫡男はその忠誠を示す為、王にその身を供する、というものであった。
その身を供する、というのは、つまりは王の夜伽をせよというのと同義である。
あの様なものの存在を兄に知らせるなど考えるだに悍ましい。
父があれを兄に引き継がないのは当然の事なのだ。
今このゴンドールに王還りまします事あらば、その王が兄に「忠誠の契約」を求めるやもしれず、そうなればその王が例え如何程に素晴らしい王であったとしても、ファラミアにはとても耐えられるものではなく、ましてやその王が万が一にでも心根の卑しい好色で淫猥な醜い老人ででもあったら…と考えると身の毛がよだつ程悍ましかった。
冷静に考えれば、その様な者がこのゴンドールの王になどなるはずもないのだが、ファラミアにはそれを冷静に判断出来る理性が既に失われていた。
未だ見ぬ誰かに兄を奪われるかもしれないという畏れの方が、ファラミアの理性を凌駕していたのだ。
そんな者に兄を奪われるくらいならいっそ…。
“いっそ?”
ファラミアは昨夜から抜け出せずにいる堂々巡りの闇に再び戻ってしまった事に頭を抱えた。
“いっそ何だというのだ?
本当に私はどうかしている“
しかし一旦その闇に戻ってしまった思考は容易にファラミアを離してはくれなかった。
どんなに振り払おうとしてもファラミアの脳裏から、朝の光に白く浮き上がった兄の肌の色や、抱き締められた時に感じた滑らかな肌の感触、兄の肌から立ち上る鼻腔を擽る優しい香りは消えてはくれなかった。
ファラミアのその夢想に宿る兄の影は甘い痺れを伴う熱を生み、その熱がファラミアの胸を焼き理性を融かした。
融けた理性が更に熱く猛る灼熱となって自身の下肢に蟠っていくのを、ファラミアには止める事が出来なかった。
幾度も幾度も繰り返し自らに科した誓いも、紛うかたなき血を分けた兄への禁忌も、もはや何の役にも立たなかった。
辛うじて持ち堪えていたに過ぎなかったファラミアの理性は、既にもう跡形もなく融け去ってしまった。
“愛している、兄上を愛している。
これは肉親の情などではない“
兄を自分のものにしたかった。
誰にも渡したくなかった。
血を分けた実の兄を自らの腕に抱き、その白い肌に、兄が自分のものである印を刻み付けたかった。
熱となった猛る想いを兄の中に解き放ち、それを兄に受け入れて欲しかった。
“そうとも、私の胸の内はこの浅ましい欲望で一杯だ。
だがそれが何だというのだ。
何程望もうとこの望みが叶う事などなく、何程想おうとこの想いが届く事なく、何程願おうとこの願いが実を結ぶ事はないのだ。
ならばせめて夢幻の中に住まう兄上を抱いてなぜ悪い。
現実の兄上に肉体など求めぬ。
兄上にこの想いを知られるつもりも毛頭ない。
それでも私は兄上が欲しいのだ。
何程浅ましかろうと、何程悍ましかろうと、それを止める事が出来ぬのなら…“
ファラミアは解放される事を待つ熱を溜め熱く猛る己の下肢に手をかけた。
“兄上…っ…”
最早自らを止める術はなかった。
幻の兄を抱き、その白い肩に咲いた赤い星に口付ける。
瞼の裏に描く兄の仰け反る喉に、滑らかな白い胸に。
熱に浮かされて己の名を呼ぶ兄の掠れた声を思い描き、煽られる熱に我を忘れ夢想の中の兄を狂おしく求める。
“兄上…兄上…兄上…っ!”
その夜ファラミアは幻の兄を胸に抱き、生まれて初めて自分で自分を慰めた。
上がる息に欲望の熱を解き放ったファラミアは、倒れ込む様に寝台に身を沈め、激しく肩で息をした。
最早誤魔化しようもなかった。
ファラミアは自分が兄を、唯ひとりの想い人として欲している事を自分自身に認めざるを得なかった。
ぐったりと寝台に身を沈め、ゆるゆるとその手を胸元に引き寄せたファラミアは、とろりとその手に残った甘美な夢の残滓をぼんやりと見詰めた。
その時漸くファラミアの胸の底に深く沈んでいた、緑の瞳の女官の言葉が意味を成して浮かび上がった。
貴方は私の事など少しもご覧になってらっしゃらなかったわ
その目がご覧になっていた幻はどなたですの?
この胸の内に荒れ狂う嵐を御心に隠されたまま、貴方はこれからも
幻を抱き続けて生きてゆかれますの?
夜伽の女官はそう聞いた