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初陣(前編) 3

 

モルウェンが下働きの女官になって1年程経った頃、執政家の次男・ファラミアが成人した。

その数日後、モルウェンは密かに内官長に呼び出され、公子の夜伽を頼みたいと告げられた。

身分の高い家の子息に対して、その様な習いがある事は何となく聞き知っていたが、なぜそのお役に自分が選ばれたのかと訝しむモルウェンに対して、内官長は言った。

「このお役は夫を持つ身の婦人にしか務まらぬ。

 そなたは寡婦故、夫に対する不貞を案じる事もない。

 そなたはこのお役を務めるに適っておるのだ」

そうは言われてもお役がお役なだけに、さすがに即答出来かねていたモルウェンに、内官長は急ぐお役目ではない故、返答は後日で構わぬと素気無く言った。

 

しかしモルウェンは、思いもかけぬ事に鬱々とした気持ちを抱えて帰路に着いた。

 

家に帰ると、3才の息子が母の姿を認めて駆け寄ってきた。

亡き夫や自分と同じ、緩く波打つ息子の黒髪を撫でて、彼女は息子を抱き上げた。

「いい子にしてた?妹の面倒は見た?」

「ちゃんと見たよ!すごくいい子にしてた!」

そう言って首に回された息子の上着には、幾つものつぎあてがあった。

“もうどのくらいこの子に新しい上着を買ってやっていないだろう”

息子を寝床に下ろすと、今度は母を待っているうちに床で眠ってしまったらしい2才の娘を床から抱き上げた。

その時娘の、自分と同じ緑色の瞳がぱっちりと開いた。

「あらあら、起こしちゃった?」

娘はごしごしと目を擦ったが、すぐにまた目を閉じて軽い寝息を立て始めた。

兄のお古は、長く着られる様に大き目に仕立て直してあるので、娘の小さな手は袖にすっぽりと隠れてしまう。

モルウェンは抱き上げた娘も寝床まで運ぶと、すでに寝入っている息子の隣に静かに下ろした。

娘の顔に掛かった黒髪を指で除けながら、モルウェンは内官長の言葉を思い出していた。

 

口外せぬ事が絶対条件のお役に下されるお手当は、そのお役に見合っただけのお手当が下されるのだ、と。

 

モルウェンは子供達の寝顔を眺めながら、お役を受けようと心を決めていた。

 

お役に上がる前日、夜伽に必要なしきたりや決め事をご教授願う様にと、内官長に連れられて女官長の部屋に続く廊下を渡っていたモルウェンは

「そなたのその目の色は父方の血だな」

と声を掛けられ、思わず「え?」と彼を見返した。

「公子様の御寝所に上がる者なれば、我々もそなたの事を調べねばならぬ。

 このミナス・ティリスではそなたの目の色は珍しいが、何十代か前の父方の血筋にドル・アムロスの者があったらしい。

 母方はまだ王おわしました頃の庶子に繋がる故、そなたの美貌もその血の流れであろう。

 公子様が初めて御寝所に上がられるに、そなたは願ってもないお相手であった」

自分ですら知らなかった遠い家系を聞かされて、モルウェンは怖いとか不愉快というより、何とはなしに心が冷え冷えとしていくのを感じていた。

 

“高貴な方がお考えになる事は分からない”

 

その後女官長に夜伽の為の様々なしきたりや決まり事を聞かされるうちに、モルウェンの心はすっかり冷え切ってしまった。

 

その様な心持のまま公子の寝所に上がったモルウェンは、夜の闇の中にひっそりと、窓辺から月を見上げるファラミアを見て「この方が?」と、10才も年下の、まだ大人になりきらぬ公子の華奢な背中をじっと見詰めた。

 

振り返った公子を目の当たりにした時“月の光を集めた様な”とモルウェンは思った。

その月の光の化身の様な公子は何も言わずにただじっとモルウェンを見詰めていた。

息を詰めて公子の言葉を待つモルウェンは、そのあまりの息苦しさに、公子より先に口を聞いてはならぬという夜伽の禁を破りそうになった。

とその時

「そなたの瞳の色…」

公子はじっとモルウェンの目を見詰めたまま呟く様にそう言った。

「瞳の…色?」

思わず問い返したモルウェンは、はっと口を手で押さえたが、公子は気に掛ける風もなく続けた。

「ドル・アムロスに縁者でも?」

「い…いえ…私は寄る辺なき身の上ですので…」

どぎまぎと答えたモルウェンを見ていた公子は「そうか」と一言だけ残し、再び窓の外の月に目を向けた。

「そなたはこの役を自ら望んで受けたのであろうか?」

モルウェンを見ないまま公子はそう尋ねた。

“望んで?望んでですって?”

それまで自分でも気づかぬうちに緊張していたモルウェンの頬に、カッと血が上った。

「望んだお役でなくとも、私には二人の幼子がおります故生活せねばなりません」

棘を含んだ声に公子が振り返る。

「気分を害したのであればすまなかった。

 ただそなたが自ら望んだ役目でないのであれば、このまま何もせず帰るがよい。

 内官長には私から上手く言っておこう」

モルウェンは公子の言葉に唖然とし、次に

“小賢しい”

と思った。

例え何程身分が高かろうと、何程美しかろうと、相手は自分より10才も年下の少年なのだ。

モルウェンは毅然と顔を上げて公子の言葉に答えた。

「いいえ、一旦お引き受けした以上、頂きますお手当の分はお役目を果たすのが道理と心得ております」

「…相分かった」

公子は漸く窓辺を離れ、モルウェンの前に歩み寄った。

「内官長からすべき事の説明は受けたが、私には初めての事ゆえ、よろしく頼む」

そう言いつつも、公子の青い瞳の中には緊張も動揺も全く見られなかった。

“小癪な”

と口に出す代わり、モルウェンは艶然と微笑んで「承知しました」と答えた。

 

 

事の終わりに、ぼんやりと天井を見上げていたモルウェンは、ゆっくりと顔だけを動かし、隣で、やはりぼんやりと天井を見上げている公子の、端正な横顔を眺め遣った。

 

最初こそ心許な気に恐る恐ると言った感じだった公子は、彼を見上げるモルウェンの瞳を、その最中に幾度も覗き込んだ。

そしてその度に自らの内にある熱を上げる様だった。

途中からその見た目にそぐわぬ激しい求めに、モルウェンの方が翻弄された。

モルウェンはまだ大人になりきらぬ公子の白い肌に何度も爪を立てた。

しかし彼女はその最中にも、公子の心がそこに無い事を確と感じていた。

それがモルウェンの、あるかなきかの如き西方の血に依るものか、モルウェンの記憶が呼び覚まされた事に依るものかは定かではなかったが、合せた肌を通し、公子の胸の奥に隠された望みなき恋への渇望を、モルウェンは確かに感じ取っていた。

 

それはモルウェン自身にも覚えのあるものであった。

亡き夫との婚儀の夜、モルウェンは胸の内に、叶う事無き恋の相手の姿を抱いて、初めての夜の寝台に上がった。

その夜以来久しく思い出す事もなかったその人の名を、モルウェンはそっと胸の内に呼んでみた。

“グウィンドール様…”

しかしその人の姿を思い出す事は出来なかった。

思い出すのは、いつも穏やかに自分を見る夫の温かい笑顔ばかりであった。

 

モルウェンは堪らなく夫が恋しかった。

 

自分は叶わぬ恋を捨て、穏やかで温かい夫の情を得、何ものにも代え難い愛する子共達に恵まれた。

 

“でも”

モルウェンは公子の横顔をじっと見詰めた。

 

モルウェンの眼差しに気付いた公子が彼女に顔を向けたが、その目はやはり何処かぼんやりと途方に暮れた様に宙を彷徨っていた。

モルウェンはすっと公子の胸に身を寄せ、その緑の瞳で公子の青い瞳を見据えた。

 

ファラミアは緑の瞳の女官の唇が動くのをぼんやりと見ていた。

女官の唇から発せられた言葉は意味を成さぬままファラミアの胸の内に落ち、その心の底深く沈んだ。

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