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初恋 16

 

ミナス・ティリスの第6階層は、凱旋した帰還兵と彼等の近従、軍馬を預かる馬丁や出迎えの兵等でごった返していた。

今般のオスギリアス防衛戦では自軍の兵を一兵も欠く事なく敵を殲滅する大勝を収めた為、兵等の表情は皆一様に明るく、出迎えた者達もまた戦勝の空気に沸き返っていた。

 

厩舎から教練所へ向かう街路を埋め尽くす人々を掻き分ける様に人波を縫って、ファラミアは兵舎へと急いでいた。

ファラミアは唯一刻も早く兄の顔を見て、その声を聞きたかった。

 

求める姿は兵舎の前に在った。

 

自ら麦酒の樽を明け、共に帰還した兵等に振舞う白の塔の総大将、石の国が誇る執政家の嫡男・ボロミアの、真っ直ぐに背筋を伸ばした後姿が。

その背に掛かる肩口で、日の光に照り映えた白金の甲冑を映した金の髪が、日の光を集めてキラキラと煌めいていた。

 

瞬時息を止めたファラミアが、逸る気持ちを抑える様に歩調を緩めたその時、ファラミアの視線に気付いたかの様にボロミアが振り返った。

「ファラミア!」

 

目の眩む様な笑顔。

 

しばしばそう評されるボロミアの笑顔。

ファラミアは評されるに違わず正しく目が眩んだ。

ファラミアのその眩んだ目には、弟に向かって大きく広げられたボロミアの腕しか目に入らなかった。

魅入られた様にその腕の中に吸い込まれたファラミアは、抱き締めた兄の、甲冑を通してさえ感じられる自らの手の中の温もりに、うっとりと瞼を閉じた。

”私の手の中に今兄上の温もりがある。

 兄上は還って来て下さったのだ。

 私にこの温もりを与えて下さる為に“

ファラミアの胸一杯にボロミアへの想いが込み上げた。

“そして兄上はいつも還って来て下さる、私の元へ。

 この温もりを携えて。

 兄上は愛して下さるのだ。

 いつも、いつもこの温かな愛で、私を。

 例え兄上のお心に誰が住まっていようと、この温もりは紛う事なく私のものだ。

 兄上が私に与えて下さる私だけのものだ。

 私はこの温もりを誰にも渡したりなぞしない。

 誰であれ、何であれ、私の手からこの温もりを奪わせたりなどさせはしない“

 

出来る事ならばいつまでも兄の温もりを腕の中に抱き締めていたかったが、ファラミアは敢えて兄から身を離した。

ファラミアは南の海の色のボロミアの瞳の中に、誰にも代える事の出来ぬ自分への愛を確かめずにはいられなかった。

 

 弟を思う兄の心でよい。

 肉親の情で構わない。

 

ボロミアを見詰めるファラミアの蒼い炎が揺らめく瞳に、しかしボロミアは、何の迷いもない春の日溜まりの様な暖かな笑顔で応えた。

 

ファラミアはその笑顔に酔った。

愛されている幸福感に目眩がしそうだった。

 

それはボロミアが知る事のないファラミアの秘められた熱だった。

 

そしてボロミアは、一片の邪気もない澄んだ笑顔でファラミアに言った。

「戦勝し祖国の都に還ると、愛する弟が迎えてくれる。

 今日の様な日こそ、まさに生きるに値う善き日だな」

と。

 

ファラミアは何も言えなかった。

何か言えば想いが溢れ、涙が零れそうだった。

 

言葉を口にする代わり、ファラミアは唯静かに微笑んだ。

兄以外の誰にも見せる事のない、冬空に掛かる月の光を集めて象った様な、澄んだ美し笑顔で。

 

“私は決してこの日を忘れまい”

ファラミアは思った。

”いつか私はこの身の内に籠る熱に焼き尽くされるだろう。

 自らに立てた誓を破り、人の則を踏み越える日が来るだろう。

 だが私は忘れまい。

 兄上が生きるに値うとおっしゃったそのお言葉を、弟として聞き、弟として胸に刻んだ、今日というこの日を”

 

 

翌朝、まだ明け染めぬ淡い闇の中でファラミアは目を覚ました。

久方ぶりの夢も見ぬ深い眠りは、ファラミアに快い覚醒を齎し、寝台の上に起き上がったファラミアは、ひやりとした室内の空気に来し方日の思いが蘇るのを感じた。

 

少年の頃、ボロミアと遠乗りに出掛ける日の朝などは前日からうきうきと胸が躍り、まだ明けやらぬ時刻に目を覚ましては、夜具の中でじりじりと空が白むのを待ったものだった。

 

するりと寝台を降りたファラミアは窓辺に歩み寄り、藍色の空に白い光が捌けていくのを眺めた。

“これではまるで10の子供だ”

ファラミアの頬に苦笑が洩れた。

 

昨日、ボロミアは午後一杯を凱旋報告と戦の事後処理の為官邸で過ごし、ファラミアは夕餉の卓を兄と共にする事が出来なかった。

ボロミアが官邸で幕僚達と夕餉を摂ると知ったファラミアは、兄が官邸から執政館へ戻る頃合を見計らい、如何にも偶々玄関広間を通り掛かったという様な素振りで兄を出迎えると

「お疲れでしょう、兄上。

 夕餉はもうお済みですか?」

と、臆面もなく言ってのけた。

案の定、「大丈夫だ、もう済ませた」と答えた兄に、これ見よがしに淋し気な表情を見せ

「久しぶりに兄上と夕餉をご一緒出来ると楽しみにしておりましたが…」

などと言えば、思惑通りボロミアは、心底申し訳なさそうに「それはすまぬ事をした」と弟に侘び、「しかし大方の案件は片が付いた故、明日は一緒に朝餉を摂ろう」と、それこそ10の子供にする様に、くしゃくしゃっとファラミアの髪を撫でて言ったのだった。

 

“ローハンの継嗣殿に言わせれば、この様なところが腹黒いという事になろうな”

ファラミアは思ったが、斯く言う継嗣とて、ボロミアの友として得られる恩恵を細大漏らさず享受すべく立ち回っているのだ。

人の事をとやかく言える筋合いではない。

そもそもこれが姑息な奸計である事は、誰よりもファラミア自身がよく承知していた。

 

 だがそれが何だと言うのだ。

 ボロミアが私に向ける笑顔を見、私の名を呼ぶのを聞き、その背を抱く温もりを得る

 為ならば、どの様な策でも弄そうというものだ。

 例えそれが弟を大切に思う兄の心に乗じる、何程姑息な策であろうと。

 

白み始めた空を見上げ、ファラミアは思った。

 

 無邪気に兄を慕っていた弟の時は既に失われた。

 私はボロミアを欲するこの熱から、最早どの様にしても逃れられはせぬのだ。

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