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三点の力学(後編) 11

 

ローハンの世継ぎが“白金の騎士”の詩を口ずさみながら書簡を解読している同じ頃、その継嗣が愛する“黄金の髪を持つ”ミナス・ティリスの高貴なる公子は、白き都を発って丁度4日目でローハン第3軍が待つ東谷に到着していた。

乗馬の世話をローハンの兵に頼んだボロミアは、後続の歩兵には到着次第休息を取らせる様指示を出し、グウィンドールと共に東谷の館にある会議室へと向かった。

会議室には第3軍の軍団長以下各隊の副将達が顔を揃えており、その中にはミナス・ティリスの近衛部隊到着を知らせる先駆けとして、近衛部隊に先行して東谷に到着していたエオメルの姿もあった。

会議室の机の上に大きく地図を広げていた軍団長はすぐさまボロミアに駆け寄って言った。

「よくぞおいで下されました、ボロミア殿。

 本来であれば我等が自ら角笛城に赴かねばならぬところを、この様な誉なき戦に長途ミナス・ティリスよりボロミア殿にお越し願わねばならぬのは、真我等痛恨の極み。

 自軍を立て、セオドレド様をお助け出来ぬのが口惜しくてなりませぬ」

軍団長の言葉に、副将達も皆悔し気に唇を噛み締める。

「お気持ちはお察しするが、私が角笛城へ参るを同盟国の責務故とはお思い下さるな」

床に落としていた視線を上げた軍団長にボロミアは頷いて見せる。

「確かに貴国ローハンと我がゴンドールは同盟国である事に違いありませぬが、それ以上にセオドレド殿は何者にも代え難き我が盟友に他なりませぬ。

 苦境にある友に助力を求められるは名誉とこそ思え、それを労苦だなど厭う者など我がゴンドールには唯の一人もおりませぬぞ?」

目の覚める様な笑顔でそう言ったボロミアに、ローハンの将兵達は思わず見惚れてしまう。

「貴殿等の無念は確とこの胸に承った。

 それ故セオドレド殿は我等ミナス・ティリスの近衛が貴殿等に代わり、必ずやお助け致してみせる。

 どうかご案じ召されるな」

ボロミアに見惚れていたローハンの将兵等は胸を突かれた様に、感じ入った表情で拳を握り締める。

「ボロミア殿…」

そう呟いた軍団長の目には微かに光るものが滲んでいた。

 

その後会議室では周囲の状況や角笛城への行軍の経路が話し合われ、館の外では近衛部隊の出立準備が整えられた。

 

東谷では、エオウィンに託されたセオドレドの指示によって角笛城までの糧食と替え馬が既に用意されており、丁度ミナス・ティリスから携行してきた糧食が底をついていた近衛部隊は、ありがたくこの心遣いを受け取った。

 

角笛城への行軍の経路は討議の結果、東谷から角笛城までの間、近衛の部隊を騎兵と歩兵の二手に分ける策を講じる事となった。

即ち、騎兵部隊は東谷から一旦西エムネトを目指して北上し、ローハン平原に入った後再び南下してヘルム渓谷に向かう。

対する歩兵部隊は大西街道沿いに西進し、雪白川を渡ってエドラスを迂回した後ローハン平原に入ってヘルム渓谷の手前で騎兵部隊と合流し、部隊を再編成するという策である。

これは白の魔法使いが東の冥王と通じていた場合、角笛城で東からの軍に背後を衝かれぬ様警戒しての策だ。

どの様な戦であれ戦を仕掛ける以上は兵を挙げねばならない。

だがこれまでローハンの兵が探索したところでは、アイゼンガルドに自前の軍を養っている様子は見られない。

となれば、角笛城へはモランノンから冥王の兵が派兵される可能性が捨て切れぬ。

それを踏まえ、東から兵が送り出された場合に辿る行軍の経路を予測した結果、黒門を出た軍勢が人目を避けて角笛城に向かうには、ニンダルヴを経由してローハン平原に入る経路を取るであろうと結論付けられたのだ。

近衛の部隊を2系統に分散して行軍する事で、未だ姿を見せぬという東からの軍勢に対する備えを考えての事なのである。

 

角笛城までの行軍経路と工程を決定し、後は一刻も早く角笛城へと出立する為館の外に出たボロミアとグウィンドール、そしてローハンの将兵達は、軍議の間に到着していたミナス・ティリスの歩兵達を交え、近衛部隊とローハンの兵が皆で協力して角笛城への行軍準備をする姿を目にし、それぞれ互いに顔を見合わせ微笑み合った。

 

数刻後、一路角笛城へ向かうミナス・ティリスの近衛部隊を見送りながら、第3軍の軍団長は誰にともなく呟いた。

「あのボロミア殿であれば、必ずや殿下をお助け下さるであろう」

軍団長の後ろに居並ぶ将兵達は誰もが軍団長のその言葉に無言で頷いた。

その中にあってエオメルもまた同様の思いを胸に抱き、小さく消えていく騎兵部隊の後姿にいつまでも目を凝らしていた。

 

 

2日後、角笛城の大門を攻めるオーク達の背後から、ミナス・ティリスの近衛部隊到着を知らせる角笛の音がヘルム渓谷に響き渡った時、城塞の奥深くに身を潜めていたグリマは思わず身を縮めて身震いした。

 

攻囲戦が始まった当初から、既にグリマの計画は悉く破綻していた。

 

3箇所見つけ出していた通用口は、どこも衛兵に固く守られ確保する事が出来ず、侵入しようとしたオーク兵は1体残らず討ち取られるか、さもなくば捕らえられた。

籠城に際しては兵を城内に留めぬ為、食糧庫に火を掛ける様画策したが、その下手人が自分であると露見せぬ様時限式で仕掛けた細工は全て不発に終わった。

実はこの不首尾にはグリマ自身が気付いていない不手際がある。

角笛城到着の当日食糧庫でのグリマの様子を不審に思った兵の一人が、その後食糧庫を隈なく調べ、仕掛けられた細工は全て撤去されていたからだった。

しかしそれを知らないグリマにしてみれば、失策続きの上全く想定していなかった援軍の到着である。

このままではサルマンの不興を買うことは必至であり、ひいてはそれが身の破滅にも繋がりかねない。

グリマは焦った。

手近にいた巻毛の少年に

「なぜ援軍の件を殿下から聞き出せなかったのか」

と当たり散らし、怒りに任せて打擲し、更に厳しく叱責した。

脛に傷持つ少年はグリマのこの叱責に身を竦ませ酷く怯えたが、その姿はかえってグリマの怒りを煽った。

少年は直ぐにも庇護を求めてセオドレドの許に走りたいと心のうちに願ったが、その時夜明け前の薄明るい東の空に、角笛城の勝利を告げる角笛が鳴り響いた。

そしてその後はミナス・ティリスの近衛部隊を迎える準備の為、セオドレドの居室を訪ねるどころではなくなった。

それ故開城した角笛城の大門に、セオドレドの名代としてミナス・ティリスの近衛部隊を出迎えたグリマに付き従った少年は、継嗣とは昵懇の仲であるというゴンドールの公子が、後刻居室を訪れる旨を継嗣に伝えよと命ぜられるや、飛ぶように継嗣の部屋へと駆け出した。

 

しかし継嗣の部屋の戸を叩いた少年は、ボロミア来訪を耳にした世継ぎの黒い瞳に、これまで少年が見た事のない明るい光が踊るのを目にした瞬間、強い怨嗟にも似た暗い火が胸に点るのを感じた。

少年は無言で一礼し継嗣の居室を辞すると、主家の元へと足を向けた。

 

翌日の夕刻、近衛部隊がミナス・ティリスへと発った角笛城では、継嗣の居室から戻ったグリマが自室に巻毛の少年を呼び出していた。

「ゴンドールの公子が到着してから殿下のご様子がどうも妙だ。

 今宵は殿下から目を離さぬ様、己の役目を充分に果たせ。

 そちが何の為当家に飼われているか忘れるなよ」

 

昇り始めた月の光は宵の口には雲に遮られ、セオドレドの居室はぼんやりとした薄明りに沈んでいた。

ローハンの世継ぎが脚に巻かれた布を解き添木を外して寝台から立ち上がった時、居室の扉が音もなく開き、白い影が部屋の中に滑り込んで来た。

セオドレドは再び寝台の上に腰を下ろすと、長い脚を組んでその影に向かい口の端を持ち上げ言った。

「今宵そなたを呼んだ覚えはないぞ」

言われた巻毛の少年は暗い炎が揺らめく様な瞳を継嗣に据えて言う。

「最早私は用済みと?」

少年は羽織っていた薄衣を肩からはらりと落とし、薄明りの中に濡れた白い素肌を浮き上がらせる。

「ですが生憎私の用は済んでおりませぬ」

ふ、と継嗣は唇に皮肉な笑みを上らせる。

「主家に飼われた身である事を思い出したか。

 忘れておればよいものを」

セオドレドの目に冷たい光が点る。

「然れば参れ。

 だがそちらがその気で参るからには、こちらも加減は致さぬぞ」

嫣然と微笑んだ少年は、猫の様な仕草で世継ぎの君の許に歩み寄ると、組んだ膝の上に乗り上げて情念の炎が燃える瞳でセオドレドを見詰めた。

「どうぞご随意に。

 なれど今宵は邪魔な添木は見当たりませぬ由、殿下の御心を手中に収める私の技量も、存分にご覧に入れて差し上げましょう」

 

 

「小姓からは、オルサンクの妖術使いが新種のオークを手勢として使っておるとの情報を得た」

ボロミアの居室では、机の上の蝋燭が既にかなりの丈を縮めていた。

セオドレドはどの様に情報を得たかの詳細は省き、情報の内容だけをそうボロミアに伝えた。

しかしこの新種のオークの存在故にモランノンからアイゼンガルドに兵が送られなかったというだけでは、オルサンクの魔法使いとモルドールの冥王が手を組んだという証立てにはならない。

そしてローハンの兵が調べた限りに於いては、あくまでもアイゼンガルドで自前の軍を養っている様子はないのである。

「地下にでも潜っているのであればいざ知らず」

とセオドレドは言った。

“新種のオーク”というのも気に掛かる。

確かに今回の戦にはこれまで見た事のない大型のオークの姿があった。

だがそれは、今まで中つ国では存在の知られていなかった新手のオークがアイゼンガルドの西からやって来ているという事なのか、それともアイゼンガルドの地下深く、何かローハンやゴンドールの民には思いも及ばぬ新たな動きが起こっているのか、その辺りの詳細は間者に過ぎぬ少年が知る由もなかった為、新種のオークというものの正体がいまひとつ判然としない。

確かなのは角笛城攻囲戦に際し、グリマが通用口からオークの兵を引き入れようとしていた事で、それは褥で喘ぐ少年の口からセオドレドに吐露されていた。

捕らえたオークから蛇の親子と魔法使いとの繋がりを辿っていけば何れ妖術使いの正体も暴けるであろう、と言うセオドレドの言葉にボロミアは頷いたが、ふと表情を曇らせ

「主家の秘匿をセオドレド殿に漏らしたと知られれば、あの少年はどの様になりましょう」

と気遣わし気な視線をセオドレドに向けた。

「蛇めらの処分次第にも因るが、子飼いの間者に弓を引かれたとなれば奴等の事だ、黙ってはおるまい。

 良くて廓奴隷、悪くすれば消されるであろうな」

セオドレドの言葉にボロミアは深い溜息を零す。

「ボロミア」

苦笑交じりにボロミアを見るセオドレドに

「致し方無き事とは存じますが、あの少年も自ら好んで間者になったものではありますまい。

 貧しい民の中には口減らしの為子を売る者もあると聞き及びます。

 あの少年もその様な境遇であったのやも知れぬと思えば、どうにも哀れに思われてなりませぬ」

そうボロミアは視線を落とした。

そのボロミアの頬にふわりとセオドレドの指先が触れる。

触れられた指先に抄い上げられる様に目を上げたボロミアの翠玉の瞳を見るセオドレドの目は優しい。

「そういうところがそなたは昔から変わらぬ。

 小さき者、弱き者に対する情が深い。

 何れその情の深さが、そなたのその身を滅ぼすのではないかと」

言いつつセオドレドはボロミアの瞳を覗き込む。

「案じられてならぬ程だ」

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