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名にし負う、王と呼ばるる 6  -邂逅-

 

 

この再びの出会いが運命なら

その運命に従おう

 

男は少年の髪にそっと触れ

金の一房を切り取った

 

 

中つ国 第3紀 2989年 初夏

 

急に降り出した雨を避け、岩場の陰に駆け込んだ行商人の男は、外套の雨粒を払って空を見上げた。

エゼルロンドまではあと僅かの行程だが、この空模様ではこのまま今日はここで足止めだろう。

男がそう考えた時、岩場の奥で微かに人の動く気配がした。

気取られぬ様、外套の裏に忍ばせた短剣の柄に手を掛け、男は背後の気配に神経を集中させた。

「男」

呼び掛ける声に何気無さを装って振り返った男は、声の主を目にして剣の柄から静かに手を離した。

見覚えのある旅装束。

白の木の紋章を染め抜いた革鎧は、嘗て自分も身に着けていたのもだ。

嘗て。

脳裏を過りそうになる面影を振り払う様に、男は“行商人”の仮面でへらりと笑った。

「へい、お邪魔様でございます」

その時、疑り深い目を向けたまま気を抜かぬ若い兵の丈高い背に

「グウィンドール?」

と、涼やかな少年の声が掛けられた。

その声に男の鼓動が跳ね上がる。

“まさか…”

存外奥行きのある岩場の奥から姿を現した少年を目にした途端、男の顔から“行商人”の仮面が剥がれ落ちた。

“ボロミア…”

アラゴルンはその場に立ち竦んだ。

 

 

9年前。

ペラルギアでウンバールの海賊を殲滅し、歴史に残る大勝を収めたゴンドール艦隊を指揮したソロンギルは、そのまま当時の執政エクセリオンに暇を告げ、ゴンドールの客将・ソロンギルの仮面を脱ぎ捨てた。

野伏の馳夫に戻ったアラゴルンはハラド街道を通り、エフェル・ドゥアス沿いに北に向かった。

アラゴルンとしては、出来うるものであれば賢者やエルフには知られず北の荒地に戻りたかったのだが、迂闊にも闇の森に足を踏み入れてしまった事でその願いは潰えた。

闇の森を治めるシンダールエルフの王、スランドゥイルからロスロリアンのガラドリエルに、アラゴルンの身元を確かめる為の使者が送られたからだ。

それ故スランドゥイルからの問いに答え闇の森を訪れたガラドリエルの使者と共に、アラゴルンはロスロリアンに向かう事を余儀なくされた。

ロスロリアンに向かう間、アラゴルンは只管胸中にボロミアの面影を留めぬ事だけに心を砕いた。

光の奥方に自分がボロミアに抱く想いを知られる事だけは何としてでも避けねばならない。

その為には自らの記憶に在るボロミアの存在そのものを封印してしまう外、手はなかった。

 

ロスロリアンは闇の森とは対極にある美しい森だった。

精巧に作り込まれたエルフの細工師達の手に成る繊細な細工が森の至る所に溢れた森は、人の住む国とはかけ離れた夢の世界だ。

しかし黄昏の淡い光に包まれた様なその夢の領土には、ともすれば人の心を地に足のつかぬ不安な心持ちにさせる危険をも孕んでいる。

気を抜けば直ぐにでも光の奥方の術中に落ちてしまうだろう。

アラゴルンは十二分に気を引き締めて奥方に相対した。

 

ミナス・ティリスの状況は当然の様に灰色の賢者から光の奥方に伝わっていた。

その点は想定内であり、アラゴルンは驚かなかった。

唯、ボロミアに関する情報が殆ど奥方の耳に入っていなかった事はアラゴルンには意外だった。

しかしその訳は直ぐに明らかとなった。

ボロミアが西方の恩寵に恵まれぬただ人であったからだ。

賢者にとってもエルフにとっても、ボロミアは関心の外にある存在なのである。

奥方の関心がボロミアにない事を確かめた以上、アラゴルンにはロリアンに長居する理由はない。

早々にアラゴルンは出立の支度を始めた。

だがそのアラゴルンを光の奥方が引き留めた。

「世継殿は少々落ち着きが足りぬ様ですね」

怪訝な表情を返すアラゴルンに

「スランドゥイル殿の御子息にお聞きしました。

 “日に透ける若葉色の瞳を知っている”と、おっしゃったそうですね」

光の奥方はそう言って微笑んだ。

アラゴルンは胸の内で闇の森の王子レゴラスを罵倒したが、しかしその胸の内を奥方に知られる訳にはいかない。

「娼館通いは否定しませんが、婚姻を約す睦言を囁く程、私は愚かではありませんよ」

と、アラゴルンは不敵に笑ってみせた。

暫しアラゴルンのその様子にじっと視線を注いでいたガラドリエルは、ふっと口元をほころばせて言った。

「淫楽は充分享受された様ですね。

 ではそろそろ落ち着いても良い頃でしょう」

ガラドリエルのその言葉に、アラゴルンは不吉な響きを聞き取ったのだった。

 

案の定、翌日ガラドリエルが用意した衣装に着替えさせられたアラゴルンが、指示され向かった先にはアラゴルンを待つエルフの姫の姿があった。

 

初夏の頃までアラゴルンはロリアンに留め置かれ、昼は光の奥方の無言の瞳に、夜は褥で夕星姫に、日に世を継いで責め立てられ酷使された。

夏至の夕べ、遂にアラゴルンは観念した。

絶望的な諦観と共に、アラゴルンはケリン・アムロスの丘で夕星姫と婚姻の誓いを交わすに事と引き換えに、漸く昼夜を問わぬ責め苦から解放された。

翌日の早朝、アラゴルンはげっそりと瘦せ細った躰を引き摺る様にしてロスロリアンを後にした。

 

こうなってしまった以上、王としてゴンドールに還る手立てを考えない訳にはいかない。

例えば冥王を倒すなどという類稀なる勲を打ち立てたところで、デネソールがその時健在であれば、アラゴルンを王とは認めないだろう。

そうとなれば光の奥方は黙ってはいまい。

万一にも光の奥方が執政家そのものを潰そうとする動きだけは未然に封じる策を講じておかねばならない。

その為にはまず手勢を固めておく事が絶対条件だ。

アラゴルンは真っ直ぐ北方に向かい、まずは北の野伏を纏めて足場を固める事に専念した。

それが幸いし、エルフ達はアラゴルンが義務を果たしているものと信じた。

エルフの信用を得たアラゴルンは北方の足場が固まると、南方へも足を運ぶ様になった。

ミナス・ティリスには必要以上に近付かぬ様細心の注意を払いながらも、ヘンネス・アンヌーンの野伏との連携をも模索したのだ。

そうして南方の状況に気を配りながら、執政に退けられる事無くゴンドールの王位に就く方策を探って中つ国を巡り歩いた。

エルフ達の信頼を確固たるものとする為、灰色の賢者や闇の森のシンダールエルフ達との交流も深めた。

唯その中で闇の森のエルフの王子、レゴラスだけは掴みどころがなかった。

“日に透ける若葉色の瞳”の件で、遠回しにちくりと釘を刺した時も

「私も冷たい瑠璃色の瞳より、温かい日に透ける若葉色の瞳の方が好きだな」

と笑った上

「そう言えば、夕星姫は瑠璃色の瞳だったかな」

などと、けろりと言う。

そのくせ人懐っこい明け透け物言いは人を不快にさせず、つい気を許してしまいそうになるからなかなかの曲者である。

妙に“若葉色の瞳”に拘るところも油断がならなかった。

これは距離を取るより昵懇になる方が得策だと判断したアラゴルンは、互いの腹の底を探り合いながらも、これより後長く、この王子と奇妙な友誼を結ぶ事となった。

 

その王子にある日“あなたはそれ程ゴンドールの王になりたいのか?”と問われた時、アラゴルンは、自らの胸がどきり、と鳴る音を聞いた。

“ゴンドールの王になる”

それが何を意味するのかを忘れた事はなかった。

ゴンドールの王は執政との密約に依り求める執政を得てきた。

自分がゴンドールの王位に就いたなら、自分もまた求める執政を得る事が出来るのだ。

臣下に忠節を求める王の権限として。

その事にアラゴルンは搔き毟られる様な胸の痛みを感じた。

嘗て頁を繰ったエアルヌア王の日誌に綴られたかの王の苦悩がまざまざと脳裏に蘇る。

自らの望みに従った時、自分の言葉に傷付くであろうボロミアの嫌悪に満ちた瞳の色を思うと、アラゴルンは気が狂いそうだった。

王となり、尚且つボロミアを求めぬ選択もある。

だがそれもまた地獄だ。

ゴンドールの王位に就く道を選べば、その先にはどの道背反する選択の懊悩が待っている。

だがそれでもアラゴルンはエルフが望む、ゴンドールの王位に就く道を選ぶしかないのだ。

他ならぬボロミアを、そのエルフの手から護る為に。

「なりたいのではない。

 ならねばならぬのだ。

 そして…」

「そして?」

問い返すエルフの王子に、アラゴルンは自嘲を含んだ苦い笑みを口の端に乗せる。

“問題は王になる事ではなく…”

「アラゴルン?」

“なった後だ”

「そなたには分かるまい。

 玉座に就く事のない王子様にはな」

アラゴルンのその言葉に

「酷いな」

と、これ見よがしに不貞腐れて見せるレゴラスに、アラゴルンは思わず頬を緩ませる。

「“玉座の孤独”が如何なるものか、父上に伺ってみるがよい」

アラゴルンはそう言って立ち上がった。

“王にならねば護り得ない。

 王でならねば求め得ない。

 されど王なれば望み得ない。

 唯ひとりの男として寄せる想いに応える愛は“

「まあ、いずれそなたにも分かる時が来るやも知れぬさ」

言い残して立ち去ったアラゴルンには、その後姿を見送るレゴラスの顔を過った悲し気な影を、目にする事は出来なかった。

 

それから後も、執政に認められてゴンドールの王位に就く有効な手立てが見つからぬまま、アラゴルンは幾度かの季節、荒野を巡った。

ボロミアの面影を封印して。

ボロミアを想えば否応なく決意が鈍る事をアラゴルンは承知していたからだ。

それ故アラゴルンは極力ボロミアを意識の外に遠ざけた。

 

 

その様にしてアラゴルンは、ケリン・アムロスで夕星姫と婚姻の誓いを立ててから7年の歳月を過ごした。

そしてその年の初夏の頃、行商人に姿を借り、アラゴルンはローハンの西境に足を運んだ。

ガンダルフの助言に関わらず、アラゴルンはイスタリの長たる白の魔法使いに対する疑念を拭い切れなかったのだ。

しかしローハンの西境では、その疑念を決定付ける確証は得られなかった。

結局アラゴルンはアイゼンガルドの偵察を断念し、ローハンの西境を後にした。

そしてアラゴルンは、海路で北方に戻る為、連絡船の出るエゼルロンドへ向かう途上、急な雨に降られ岩屋に雨を避けたのだった。

 

雨の上がった夜空には雲間から淡い星影が覗いていた。

野営の焚火越しに盗み見た金の髪は焚火の炎に照らされきらきらと眩しい光を弾いている。

アラゴルンはその眩しさに、覚えず微かに目を伏せた。

岩屋に駆け込んで来たアラゴルンを、一介の行商人と信じて疑わなかった執政家の嫡男は、既に岩屋に設えられていた野営の場を提供しようとアラゴルンに申し出たのだ。

2人の従者の内、“グウィンドール”と呼ばれたひょろりと長身の若い兵は、胡散臭気な態度を崩さなかったが、敢えて主人に異を唱える事はしなかった。

ドル・アムロスに居る弟に会いに行くのだと笑ったボロミアの、温かな瞳の色を目にしたアラゴルンは、顔さえ知らぬその弟に、謂れのない嫉妬心すら感じずにはいられなかった。

野営の場を提供してもらった礼にと、火の番を買って出たアラゴルンは、ボロミアと2人の従者が寝静まった夜半過ぎ、息を殺して公子の顔を覗き込んだ。

どれ程心の底に封じようと、忘れる事など出来なかった。

愛しさは絶える事無く胸の内に降り積もっていた。

9年前、超常の力で“視た”通りの美しい少年に成長したボロミアを目の当たりにして、アラゴルンは最早心の底に想いを封じておく事は出来なかった。

“この再びの出会いが運命なら

その運命に従おう“

アラゴルンはそっとボロミアの金の髪に口付け、その一房を切り取った。

“私はこの想いと共に生きていこう”

 

 

 

 

-了-

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