がんばれ!ファラミア
~執政家に首ったけ~
萌芽 1
2996 ミナス・ティリス
愛し過ぎてはいかん
灰色の放浪者はそう言った
過ぎたる愛は人を殺し、心を壊す
と
前執政エクセリオンが亡くなって以来、灰色のガンダルフが白の都を訪れる機会は著しく減じていた。
この灰色の放浪者と折り合いの悪い現執政デネソールは彼の訪問を歓迎する事がなく、城中の廷臣達も執政のそれに倣った。
自然、この白き都の広大な書庫に用がない限りガンダルフの足も遠のいた。
そのガンダルフが3年前、久しぶりに都を訪れた時、広い書庫の片隅で一人の涼しい目をした利発な少年と出会った。
伝承と詩歌を好み、楽の音を能くする水の色の目をした少年は、魔法使いの話にその目を輝かせて熱心に耳を傾け、彼を師と仰いだ。
その少年が執政家の次男・ファラミアと知ったガンダルフは、デネソールの心情を慮って俄かに不安を覚えたが、果たしてその不安は的中し、ファラミアとガンダルフの親交は都の大侯の不興を買った。
それ故ガンダルフはファラミアの聡さを愛しはしたが、その次男の立場を思い遣って、ミナス・ティリスに足繁く通う事は差し控えた。
それでも1年に1度か2度ふいに現れる灰色の魔法使いを執政家の次男は心待ちにし、ガンダルフが訪れた際には常に心から彼を歓待した。
その日もガンダルフがミナス・ティリスを訪れたのはほぼ1年ぶりだった。
ファラミアは常に変わらぬ敬愛を込めてガンダルフを迎え、二人は午後の柔らかな日差しの中で、穏やかな語らいを楽しんだ。
とその時、ランマス・ホエールの北門より騎馬の蹄が遠く聞こえた。
ファラミアの頬にさっと朱が差し、弾む声でガンダルフに告げた。
「兄上が戻られた様です」
「そなたの兄はまた戦場に出ておったのか?」
「ええ、今回はローハンの援軍で東の谷に」
ガンダルフは眉を顰めて小さくため息を吐いた。
「お前さんの兄君は戦ばかりで、未だ会えた例がないの」
「ミスランディア…」
ファラミアは困った様な表情で師の顔を仰ぎ見た。
「兄上は戦がお好きなわけでは…」
「しかしそなたの兄は古のエアルヌア王の気質にも似ると聞くが?」
「私はエアルヌア王を存じ上げませぬ故兄上と似ているかは判じかねます」
ガンダルフは口の端に笑みを浮かべた。
「相変わらず賢しいの」
その時窓外に鬨の声が上がり、二人は思わず席を立ち北の窓からペレンノール野を見下ろした。
そこには、はにかんだ様な困った様な顔で、兵達に担ぎ上げられているボロミアの姿があった。
ファラミアは眩し気にその光景に目を細めた。
「此度は兄上が中隊を率いて初めての戦故、兵達の士気が高いのです。
兄上は兵達に愛されております故」
ガンダルフはそのファラミアの横顔をじっと見遣った。
「そう言うお前さんの方こそ、いたく兄君を愛している様に見えるがの」
ガンダルフのその言葉に僅かに動揺を見せたファラミアは、しかしすぐにいつもの穏やかな笑顔をその顔に貼り付けた。
「それはもちろん、私は兄上を愛しておりますが…、このミナス・ティリスに兄上を愛さぬ者などおりましょうか?」
「おらぬ…と申すか?」
「おりませんでしょう。
いるとすれば、それは城中においてのみ。
我が目の及ぶ範囲に限られますれば、物の数ではありませぬ」
“聡い”
恐ろしく聡い。
まだ13にしてこの賢しさでは、いずれどれほど智に長け様か末恐ろしいほどだ、とガンダルフは思った。
“しかし”
聡き者はその賢しさ故に曇る目がある。
智慧では得られぬものを知る時。
灰色の魔法使いはその空色の瞳に、この白き都からではその目に映らぬ遥か西方の地に目を向けた。
永き時、共にアイヌアの歌を歌い、その深き叡智に憧憬を抱き続けた誰よりも愛する友。
いつの頃からかその偉大なるイスタリの長が自分を見る時、その目の奥に灯る幽かな炎に、このイスタリは気付かぬ振りをした。
いつかその炎に、愛する友自身が焼き滅ぼされるかもしれぬという恐怖に目を瞑り。
“西方から遣わされたイスタリか…”
ガンダルフの口の端に苦い自嘲の笑いが漏れた。
灰色の放浪者は我知らず厳しい口調で呟いた。
「愛し過ぎてはいかん。
過ぎたる愛は人を殺し、心を壊す」
「ミスランディア?」
ファラミアの声を耳にして我に返ったガンダルフは、自分を見詰める瞳の水の色にふっと息を吐いた。
「愛も過ぎれば心は歪み目は曇る。
愛故に歪んだ心に闇の毒が入り込むのは容易いのじゃ。
分相応に愛し、分相応に愛されてこそ世の均衡は保たれる。
愛し過ぎてはいかんのじゃ」
まるで自分自身を戒めている様なイスタリの言葉に、なぜかファラミアは微かに反発を覚えた。
愛し過ぎる心を、人は自ら止める事が出来るのだろうか?
愛され過ぎた者が、それを愛と知って尚拒む事が出来るのだろうか?
それが出来るのが賢者であり、イスタリであるのならば、それが出来なくなった時、賢者は賢者でなくなり、イスタリはイスタリではなくなるだろう。
されど
自分は賢者でも、ましてやイスタリでもない。
ただ死すべき定めの人の子にすぎぬ。
自分には見えない何かを西の方に見るイスタリの、厳しい表情がファラミアの胸の内に微かな棘を刺した。
しかし
ファラミアは敢えてそれに気付かぬふりをした。
“私には…イスタリの言葉は遠い”
同じ様に青い目をした師弟は、別々の思いを抱え、すでに日が西に傾き始めた空の下、曇りなく晴れやかな金の髪の指揮官を担ぐ兵士達が、戦勝の詩を謳いながら白き都の大門を潜るのを、ただ静かにじっと眺めていた。