top of page

血脈 4

 

「義兄上が?お出掛けに?」

珍しい事もあるものだと思いながら、イムラヒルが大侯の侍従に

「してどちらへ?」

と尋ねると、侍従は当惑した表情で言い淀んだ。

「それが…、極私的な事ゆえとおっしゃって供回りの者もお連れにならずにお出掛けになられましので…」

侍従のその言葉を聞き“ああ”と得心がいったイムラヒルは「相分かった、手間をかけたな」と侍従を返すと、昨日訪れたばかりの陵墓の方角が見える窓辺に歩み寄った。

“自分の頬を張った相手への墓参とは義兄上らしい”

 

 

フィンドゥイラス危篤の知らせを受け、ドル・アムロスから真っ先に駆け付けたのはイヴリニエルであった。

しかし昼夜を分かたず馬を飛ばしたイヴリニエルがその脚に付いて行かれなかった供回りの者達を全て置き去りにした結果、単騎ミナス・ティリスに到着した時にはフィンドゥイラスはすでに鬼籍の人となっていた。

執政の家に駆込んだイヴリニエルは寝台に横たわる姉の亡骸を見にした途端その場に崩れ落ちた。

蒼白な顔で魂が抜けた様にその場に蹲っていたイヴリニエルは、その傍らに音もなくデネソールが歩み寄った瞬間弾かれた様に立ち上がり、いきなり義兄の頬を力一杯張り飛ばした。

イヴリニエルは女性としては十二分に丈高くはあったが、デネソールは6尺を優に超える偉丈夫であり、ゴンドールの現執政であった。

しかし、それより何より女性であるイヴリニエルが衆人環視の中で男子たるデネソールの頬を張るなど、あまりにも有り得ない信じ難い出来事にその場にいた全員が凍り付き微動だに出来なかった。

「お姉様を幸せにするって言ったじゃない!!」

空気を切り裂く様なイヴリニエルの声に、凍り付いていた人々の呪縛が解けた。

デネソールの胸倉を掴み

「必ず幸せにするって言ったじゃない!!」

そう言って泣き叫ぶイヴリニエルを、呪縛の解けた中の数人が引き離しにかかったが、デネソールはそれを制しイヴリニエルがその拳で自分の胸を打って泣き叫ぶのを止めようととはしなかった。

軈てイヴリニエルがずるずるとデネソールの足元に頽れると、デネソールはその前に跪き、震えるイヴリニエルの肩に手を置き「すまぬ」とだけ言った。

その声を聞いたイヴリニエルは顔を上げデネソールの灰色の瞳を見上げると、その胸に取り縋って子供の様に声を上げて泣きじゃくった。

デネソールはそんなイヴリニエルの背を、小さな子にする様にただ優しく撫で続けた。

 

 

ドル・アムロスにデネソールが到着した翌日に開かれた宴席で、その丈高い無愛想な執政家の嫡男を目にしたイヴリニエルは何とはなしに面白くなかった。

デネソールが好ましくなかった訳ではない。

寧ろ男子だというだけで3割方見る目が厳しくなるイヴリニエルには珍しく、デネソールには好もしい感情を持ったのだが、その事が逆にイヴリニエルを面白くない気分にさせていた。

面白くない理由はもう一つあった。

普段宴席の様な人いきれのする場には体調を崩しがちで同席する機会の少ない姉が、この時はなぜか大層加減が良く、その宴席に同席したのだ。

無論、姉がどうこうという事ではない。

公国の公女ともなれば賓客を迎える宴席は公務であり、同席出来る状態であれば同席するのは義務である。

その上滅多に見られぬ正装した姉は、それはそれで美しく、その点に置いては文句はないのだが、問題はその姉を見る男達の視線であり、男達の態度の方であった。

そういう男達の中にデネソールの姿は見受けられなかったのだが。

“面白くない”

イヴリニエルは思った。

しかし、如何にドル・アムロスのじゃじゃ馬姫と呼ばれたイヴリニエルとはいえ、21ともなれば公国の公女として公の場でいつものじゃじゃ馬ぶりを発揮する訳にもいかず、目の届かぬ場所にいる姉の様子を気にしつつ、引き攣った笑顔で処理すべき公務をやっつけていた。

 

公務を終えた後、姉の姿を求めて宴の間を探し回っていたイヴリニエルは人目に付かぬバルコニーの陰に姉の姿を見つけてほっと息を吐いた。

やや歩調を緩めバルコニーに向かったイヴリニエルは、夜ともなれば戸外では夜気が冷たくなる季節に姉が肩を抱くのを目に留めると、何か羽織る物を…と辺りを見回した。

とその時、姉に近付く人影を認めたイヴリニエルは羽織る物どころではなく姉の元に駆け寄った。

だがその時にはその人物は去って行くところであり、確とは分からぬその人物にイヴリニエルは内心舌打ちした。

「お姉様、こんな所にいらしたらお風邪を召してしまわれるわ」

そう言いつつ姉の手を取ろうとしたイヴリニエルは、姉の膝の上で綺麗に畳まれた布地に目を留めた。

ドル・アムロスでは目も綾な織りも、色鮮やかな染もない布地は珍しい。

しかし今姉の膝の上にあるのは、織りも染もない生成りの布地だ。

「それは?」

そう問いかけた妹にフィンドゥイラスはふわりと微笑んで言った。

「デネソール様の侍従のお方がお持ち下さったの」

「デネソール様の?」

「戸外の夜気が体に障りましょうとおっしゃって下さって…」

フィンドゥイラスはそう言って膝の上の肩掛けと思しき布地をその細い指で優しく撫でた。

イヴリニエルにはその決して派手ではないが、丁寧に織られた事が見て取れる温かな温もりが感じられる肩掛けを見詰める姉の翠の瞳に点る、それまで見た事のない色の優しい光に胸の奥が騒めくのを感じていた。

 

デネソールはその人目を惹く容貌にも関わらず、宴席での存在感がまるで感じられなかった。

装飾の一切無い黒尽くめの式服はいっそ喪服の様で、隣に座るアドラヒルと言葉を交わすでもなく貴賓席に黙って座すデネソールは、椅子の上に蟠る影の様でさえあった。

 

心なしぼんやりとした姉の様子に、イヴリニエルは「お部屋に戻りましょう」と促し「退席のご挨拶を」という姉を強引に制し「私が言って来るから」と姉をバルコニーに残し、父アドラヒルの元に向かった。

 

姉が宴席を辞する旨を父に伝えながらイヴリニエルは父の隣に座るデネソールの様子を窺ったが、感情が顕われない灰色の瞳からは表情は読めなかった。

「姉上は体調が優れませぬ故、席を辞するとの事で御座います」

イヴリニエルのその言葉に、慣れぬ宴席で無理をしたのではあるまいかと眉を曇らせアドラヒルに、思いがけずデネソールの声が掛かった。

「人いきれにお疲れになられただけでしょう。

 大事無いかと存じますが」

と、そこでデネソールは、鷹の目を思わせる鋭い視線をイヴリニエルに投げた。

「寧ろこの時期戸外の夜気の方がお体に障りましょう。

 貴女は姉上を戸外に残しておいでか?」

ぐっと言葉に詰まったイヴリニエルにデネソールは追い打ちをかけた。

「早くお戻りになって姉上をお部屋にお連れになられよ」

「言われなくともそう致します!」

かっと頭に血が上ったイヴリニエルはデネソールに捨て台詞を残すと、ドレスの裾をばさばさいわせながら、大股でバルコニーに戻って行った。

その後姿を見送るデネソールの口の端には薄らと笑みが上っていた。

 

姉の居室に戻ったイヴリニエルは、すっかり冷え切ってしまった姉の手を握って酷い後悔に襲われていた。

「ごめんなさい、お姉様…、あんな所にお姉様を放っておくなんて…私…」

「まあ、イヴリニエル、そんな事気にしなくても良いのに」

「でも…お姉様なぜあの…」

イヴリニエルは綺麗に畳まれたまま机の上に乗せられた肩掛けを目で追った。

「肩掛けを…お使いにならなかったのた?」

「そうねぇ…」

姉が小首を傾げると、その肩に素直に落ちる金糸の髪がさらりと揺れた。

「なぜかしら」

イヴリニエルは姉のその優しい声になぜかどきりと胸が痛んだ。

 

 

滅多に出ない宴席で人いきれに軽い目眩を感じたフィンドゥイラスは、少し休もうと人目に付かぬバルコニーに向かったところで宮中の文官の一人に捕まりすっかり困惑していた。

背の低い猫背の文官が薄ら笑いを浮かべながら、舐める様な目で口にする言葉の意味がよく分からず返答に窮していたフィンドゥイラスは、文官の後ろに足音もなく現れたデネソールの姿を認めた時、その鷹を思わせる灰色の鋭い光を湛えた瞳に、つい、と吸い込まれた。

デネソールもまた吸い寄せられた様にフィンドゥイラスの翠の瞳を見詰め、その二人の間に挟まれた文官は行き場をなくして哀れなほどおろおろした。

漸くデネソールが深い淵から響く様な声で「姫が困っておられる」と一言だけ言うと、その文官は飛び上がってその場からあたふたと逃げ出した。

デネソールは初めからその場に文官などいなかったかの様にフィンドゥイラスに歩み寄って僅かにその顔を覗き込むと

「顔色が優れぬようだが」

と静かに響く声で言った。

フィンドゥイラスもまた文官など初めから存在しなかった様に

「少し人いきれに酔った様ですわ」

と、鈴を振るかの如き澄んだ声で答えた。

「大事無い様なら結構だが、人目に付かぬ所で少し休まれるが宜しかろう」

「はい、その様に致します」

ただそれだけの会話だった。

しかしデネソールのその深く胸に響く声音も、高き山の頂で地上を睥睨する鷹を思わせる灰色の瞳も、フィンドゥイラスの心に、それは深く刻み込まれた。

バルコニーのベンチに腰掛け、出会ったばかりのデネソールの姿を胸の内に描いていたフィンドゥイラスの元に、そのデネソールから肩掛けが届けられた。

丁寧に織られた温かい、ミナス・ティリスの…。

 

 

「…えさま、お姉様!」

はっと気付くと、イヴリニエルが心配そうに姉の顔を覗き込んでいた。

「ああ…ごめんなさい、イヴリニエル。

ぼんやりしてしまって…」

微笑んだ姉は、しかし此処ではない何処かにその心を置いている。

イヴリニエルは目の前の姉が急に遠く手の届かぬ存在になってしまった様な不安を感じていた。

bottom of page