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未明(前) 2

 

 

母・フィンドゥイラスが亡くなった時、まだ5歳だったファラミアには母の死が何か儚い夢の様にしか感じられなかった。

 

物心ついてから母の姿を見る事すら稀なほど、常に病みがちで床に臥す事の多かった母の姿は、幼いファラミアにとっては思い出と呼べるほど定かな記憶ではなかった。

同じ様に父であるデネソールの記憶も、ファラミアにとってはぼんやりとした輪郭しか持たない朧なものであった。

父とは言ってもデネソールと顔を合わせる事は少なく、声を掛けられる事は更に少なかった。

自分から話し掛けても返事が返ってくる事は滅多になく、ましてや笑い掛けられる事や、抱き締められる事などただの一度足りとしてなかったからである。

ファラミアにとって父母とはそういう存在であった。

 

そのファラミアが母の死を悲しいと感じたのは、兄であるボロミアが母の死を悲しんでいるのを感じたからである。

母の亡骸の前に立ち、今の自分と同じ齢だった兄が、しっかりと握り締めた自分の幼い手に、兄の悲しみが伝わってきたのを、ファラミアは今もはっきりと覚えている。

 

すでに真っ赤に泣き腫らした目で涙を耐える兄を見上げたファラミアは、自分でも気付かぬうちに強く兄の手を握り返していた。

はっと顔を上げた兄が自分を見た時、自分がどんな顔をしていたのかは、ファラミアには分からなかった。

しかし、瞬間膝をついた兄が自分を抱き締め

「すまぬ、ファラミア。

 大丈夫、私が…兄がいつもお前を守るから」

そう言った兄の言葉が、その腕の温もりと共にその日以来ファラミアの望む全てになった。

 

 

 

そして兄は忠実にその言葉を守った。

還らざる王に代わり石の国ゴンドールを統治する執政の家の嫡男として生まれた兄には、10歳にしてすでに自分の自由になる時間は少なかった。

それにも拘らず、兄は自由になる時間の大半をファラミアの許にあり、ファラミアは許される時間の全てをボロミアの傍にあった。

時に抱き合って眠る兄弟の姿は「まるで一幅の美しい絵を見る様な」と、宮中の女達を騒がせた。

しかし二人の父であるデネソールはその様な兄弟の姿を見つけると、決まって冷ややかな一瞥を投げ、兄だけを抱え上げてその子供部屋に連れ戻った。

 

兄・ボロミアに掛けられる深い愛情が弟・ファラミアに示される事はなく、特に妻・フィンドゥイラスを失った後は、デネソールがファラミアを一顧だにする事はなかった。

 

 

フィンドゥイラスが亡くなって三月程経った頃、彼女の妹・イヴリニエルもまた亡くなった。

 

ドル・アムロスの公の歴史書の中に見る彼女の存在は酷く儚い。

いたともいなかったとも、フィンドゥイラスの姉とも妹とも伝えられている。

それはロスサールナッハへの輿入れの途上オークに襲われて亡くなったと伝えられる最期にも、ドル・アムロスの王陵ではなくミナス・ティリスに程近い墓所に埋葬された為とも言われるが、いずれにせよ彼女自身の「例えドル・アムロスの歴史に残らずとも」という遺言により白の都近くに葬られた事は確かであった。

 

埋葬はごく近しい近親者のみでひっそりと執り行われた。

 

目に入れても痛くない掌中の珠と愛した娘二人を、立て続けに亡くし憔悴しきったドル・アムロスの大公・アドラヒルに代わりミナス・ティリスを訪れた公子・イムラヒルは、姉二人を亡くした上、戻れば父に代わり処理すべき山積みの大公職が待っている事を思うと、すぐには領国に戻る気になれず、イヴリニエルの埋葬後ぐずぐずとミナス・ティリスに留まっていた。

その逗留中、甥である執政家の長子・ボロミアが床に臥した。

姉・フィンドゥイラスの事もあり、イムラヒルが見舞いの為ボロミアの部屋に続く執政の家の長い廊下を渡っていた時、その長廊の隅で女官達が顔を寄せ合っているのを見止め、イムラヒルは足を止めた。

西方の血に加えエルフの血統も継ぐイムラヒルの敏い耳に女官達が囁き交わす声が聞こえてきた。

「いつもは聞き分けの良いファラミア様なのに」

「やはり奥方様が亡くなられて…」

「いえ、むしろ父君様のご叱責が原因ですわ」

 

「何を話しているのかね?」

突然現れた公子の姿に女官達は飛び上るほど驚いたが、彼女らの主である執政の大候と違い、亡き奥方に面差しの似た物腰の柔らかな公子に安堵した女官達は、互いに顔を見合わせると、イムラヒルに助けを求める様に話し始めた。

 

女官達の話すところに因ると、どうもファラミアは熱を出して臥せっているボロミアの部屋の前で、朝から食事も摂らずに座り込んでいるらしかった。

そもそもボロミアが熱を出したのは、風邪を引いたファラミアを夜通し看病した無理が祟ったらしく、それを聞き知ったデネソールは「ボロミアが回復するまでは兄の部屋に出入りする事は罷りならぬ」とファラミアに言い渡した。

父の言葉にファラミアは、周りの者達が声を掛けるのを躊躇うほど小さくなって項垂れていたという事だった。

 

「ファラミア様は大人しくていらっしゃるから、お弱そうに思われますけど、本当はボロミア様の方が余程お体はお弱くていらっしゃって…」

「ファラミア様のお風邪はそれ程酷くはなかったのですもの。

 ファラミア様だって、ご自分から兄君様に、ついていて欲しっておっしゃったりしませんでしたわ」

「でもボロミア様がついていて下さるのと、ついていて下さらないのでは、傍目にもお加減の良さが違っていたでしょう?」

そう言い交わすと、女官達は顔を見合わせてため息をついた。

 

イムラヒルがボロミアの部屋の前に立つと、膝を抱えて座り込んでいたファラミアが顔を上げた。

元より色の白い子ではあったが、今ではその頬から血の気が失せて小さな顔が青ざめていた。

思わず差し伸ばしたイムラヒルの手を遮るように

「兄上が…私のせいで…」

と、震える声でそれだけ言ったファラミアの、その薄い水の色の瞳にみるみる涙が溜まっていった。

「ファラミア…」

イムラヒルは床からファラミアを抱き上げると、優しくその背を撫でながら

「ファラミアのせいではない。

 心配せずとも良い。

 ファラミアのせいなどではないのだから」

そう何度も繰り返しファラミアに言聞かせた。

ファラミアは叔父の背を小さな手でぎゅっと握り締めると、きつく唇を噛締めて、声を殺してすすり泣いた。

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