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三点の力学(後編) 13

 

蝋燭の灯が揺れる影を部屋の壁に投げ、残り少ない時を告げていた。

「これは思いの外長居を致した」

セオドレドはにっこりと笑って言った。

「この様な事になると分かっておれば“ローハンの赤”を革袋に詰めて持って来るのであったな」

「“ローハンの赤”と申されますと、幻の銘酒と呼ばれているという、あの“ローハンの赤”の事でしょうか?」

ボロミアの言葉にセオドレドは“ほう”という顔をする。

「酒を嗜まぬそなたでもこの酒の名は知っておるか」

「ファラミアから聞いた事がございます。

 ローハン王家の方々でも滅多に口に出来ぬ貴重な酒だと」

「然様。

 王家でも余程の祝いの席にしか供さぬ貴重な酒だ」

セオドレドは喉の奥で笑って言う。

「だが此度の戦は正史にも残せぬ誉なき戦だ。

 兵達に勲を立てさせてやる事も出来ぬ故、大盤振る舞いで王家の倉から一樽運ばせた」

「セオドレド殿」

ボロミアの頬に温かな笑みが浮かぶ。

「私は不調法で酒の味は分かりませぬが、それはさぞかし美味い酒なのでしょうな。

 ファラミアがこの場に居りましたら、一口なりと飲ませてやりたいものです」

「あれは酒豪故な」

そう言うセオドレドの口の端に含みのある笑みが上った事に、ボロミアは気付かない。

「そのあたりは父上に似なかった様です

などと穏やかな笑顔で暢気な事を言ったりする。

ボロミアのその穏やかな笑顔を見ているうちに何やらすっかり毒気の抜けてしまったセオドレドは胸の内で苦笑を漏らすと、ぐいっと大きく胸を反らして伸び上がり

「さて」

と言って立ち上がった。

「流石にそろそろ部屋に戻るとしよう。

 このままでは夜が明けてしまおう程にな」

セオドレドのその言にボロミアも立ち上がる。

「これは気が利きませず。

 久方ぶりにお会いして、ついお引き留め致しました」

そう言うボロミアにセオドレドは笑う。

「別段そなたに引き留められた覚えはないぞ。

 寧ろ私の方としては、夜の明けるまでそなたと膝を交えて話しておりたいところだ」

“出来うる事なれば膝を交える以上も望むところだがな”

内心そう呟きながらセオドレドが

「だがそうもゆかぬ。

 然れば…」

と言い差した時、既に大半が燃え尽きていた蝋燭がふっと灯を消し、室内が闇に包まれた。

その闇の中ですかさずボロミアの腕を引いたセオドレドは、白の公子の滑らかな頬に掠める様に口付ける。

突然の事にきょとんと目を丸くしたボロミアに

「後程朝餉の席でまた会おう」

そう言い残したセオドレドは鎧戸を開けると、月明かりのない夜の闇にひらりと軽く身を躍らせた。

 

少年が強く揺り起こされた時角笛城のその部屋は、朝の兆しの薄闇に支配されていた。

微かに青味を帯びた闇の中に自分を覗き込む黒い瞳を認めた瞬間少年は、一人寝には広すぎる豪奢な黒檀の寝台の上で、蒼白になって跳ね起きた。

既に濃緑色のダブレットに着替えたローハンの世継ぎは、寝台の上で血の気を失くしてがたがた震えている少年の様子を気に掛ける風もなく、粗織の質素な服を一揃い少年の前に投げ出した。

「着替えて直ぐに城を出よ」

訳が分からず目をしばたたかせる少年に向かい

「急がぬと夜が明けるぞ」

そういうセオドレドの声に慌てて服に手を通す少年が着替えるのを待ってセオドレドは、革袋をひとつ少年に放った。

受け取った少年がその革袋の思いがけぬ重みに思わず中を確かめると、その中には重みに見合う金貨が鈍い光を放っていた。

「殿下!」

驚いて顔を上げた少年に向かってセオドレドはぴしゃりと言う。

「情を掛けるは一度だけだ」

目に涙を溜めた少年が口を開くより先に

「礼は必要ない。

 礼が申したくばボロミアに申せ。

 そなたの身を案じるボロミアに免じての事だ」

セオドレドはそう言ったが、少年は革袋を握り締めた指先を見詰め

「この御恩は…」

と声を詰まらせた。

その少年に歩み寄ったセオドレドは強く肩を掴んで少年の顔を上げさせると、真っ直ぐにその目を見据えて言った。

「これを恩と思うならローハンの事は忘れ、身に沿う場所で身の丈に合った暮らしを全うせよ。

 これはローハンの民であるその方に、私がローハンの世継ぎとして下す最後の命だ」

「殿下…」

 

ヘルム渓谷の谷合を北に向かって駆け下っていた少年は、東から射す朝の最初の光に目を細めて立ち止まった。

一度だけ角笛城を振り返って胸にぎゅっと革袋を抱き締めた少年は、北に目を向け再び谷間を辿り始めた。

 

ローハン第2軍の兵達が角笛城の大広間で朝餉の卓に着いた時、「当家の小者が今朝から姿を見せぬ!誰か見た者はおらぬか!」と騒々しく喚き立て乍ら姿を現したグリマは、兵等と共に朝餉の卓に着く世継ぎの姿を目にし、暫しの間あんぐりと口を開け木偶の様に固まった。

呆然とするグリマの様子など歯牙にもかけず

「私は見ておらぬが、誰か見た者はおるか?」

とセオドレドは卓に着く兵等をぐるりと見渡す。

笑いを噛み殺した表情の兵達が皆一斉に首を横に振るとセオドレドは

「誰も見た者はおらぬ様だ」

グリマに向かって嫌味なまでに爽やかにそう笑った。

「で…殿下…、お…お御足は…」

グリマが絞り出す様に掠れ声で問うのに答え

「治った」

と一言、セオドレドはいっそ清々しい程平然とそう言ってのけた。

呆然としていたグリマの顔は次第に怒りでどす黒く変わり

「偶にはそなたも皆と卓を囲んでみてはどうだ」

と言う継嗣の言葉に無言で表情を歪めると、足音高くその場を後にした。

 

グリマのその足音が遠ざかると広間にどっと笑いが起こったが、継嗣の隣に座を設えられたゴンドールの白の君は、唖然とした表情で友の横顔を見詰めていた。

「どうした?ボロミア」

友の問いにゴンドールの公子は

「あ、いえ…」

と目を宙に泳がせる。

「確かセオドレド殿はあの少年を城外へ逃がされたと…」

そう躊躇いがちな視線を送るボロミアに

「案ずるな。

 確かにあの者は夜明け前に城外に逃がした」

セオドレドはぬけぬけとそう言い、困惑気味のボロミアの顔を見てくすりと笑う。

 

“ゴンドールの人間は嘘をつかない”

固くそう信じて疑わぬボロミアは、セオドレドの様に平然と偽りを口に出来る人間が不可解なのだ。

ボロミアのその心情を充分に解しているセオドレドは

“しかし”

と胸の内で笑いを噛み殺す。

“あの腹の黒い弟君や、権謀術数に長けた父君だとてそのゴンドールの人間だろうに”

そう思うとセオドレドはどうにも可笑しくてならないのだが、どうやらボロミアは父や弟も嘘なく清廉潔白に生きているものと信じて露程も疑っておらぬようなのだ。

そもそもボロミアがゴンドールの人間が嘘をつかないと信じ込んだのは、幼少の砌、亡き母上からそう聞かされたからだという事らしいのだが、未だにそれを馬鹿正直に信じ、“嘘をつかない”という誓いを守り通しているなど、西方の驚異どころではない。

殆ど奇跡だ。

その軌跡にボロミア本人だけが気付いていない。

“それ故誰もがそなたを大切に思うのだ。

 無防備過ぎる程のその無垢な魂を守りたいと願って“

 

異変が報告されたのは朝餉の後、ミナス・ティリスへの途上「セオデン王にご挨拶に伺う」と言うボロミアに同道し、今回の件を父王に報告するというセオドレドが出立の準備を終えた時の事だった。

「捕らえたオークが死亡しました」

そう報告した兵の言葉に、珍しくセオドレドは表情を厳しくした。

 

通用口で捕縛した3体のオークはエドラスに連行し、王の御前で尋問するはずになっていたのだ。

王の面前で捕らえたオークが魔法使いの手勢であり、蛇の親子がその魔法使いと気脈を通じていると立証出来れば、如何にガルモド等が蛇の舌を弄そうと、親子がその地位を追われる事は必定であろうと考えられたからだ。

然るにその3体のオークが全て、時を同じくして事切れたというのである。

3体のオークはそれぞれ個別の牢に入れ、グリマが口封じを図るであろう事を予測し警戒も怠らなかった。

にも拘らずオークは死んだ。

兵の報告に依れば別々の牢で同時刻に、糸の切れた操り人形の様に突然ばったりと倒れ、そのまま事切れたというのである。

兵の一人は

「寿命の尽きた玩具が壊れる様に」

と、不気味そうにそう言った。

 

「魔法使いの仕業でしょうか」

ボロミアが問うのに対し

「そうだ、と言うだけの確証はないが、そうでない、と言うだけの根拠もまた、ない」

とセオドレドは答えた。

「相手が妖術使いであるからには、遠隔の地より人をとり殺すが如き術を心得ておらぬとは言い切れぬが、その様な術を心得ておるのであれば、兵など挙げずともその術を以て私をとり殺せばよいだけの事だ。

 それをせぬのは、それが出来ぬからだと考えるのが妥当であろう。

 怪し気な術でオークどもを操っておるやもしれぬが、そうは申してもオークとて命は惜しかろう。

 オーク如きが自ら毒を煽るものとも思われぬが、それにしてはオークどもの死に様が面妖だ。

 どうも私にはアイゼンガルドのあの地には油断のならぬ不穏な動きがある様に思えてならぬ」

セオドレドのその言に、ボロミアも表情を険しくして頷いた。

「何れにせよ、これでグリマが攻囲戦の際城中にオークを引き入れ様とした事を証立てる術はなくなった。

 親子ともども蛇めを父上の御側から引き離すのは難しかろうな」

「セオドレド殿」

気遣わし気にセオドレドを見遣るボロミアに、ふっと表情を緩め

「だが少なくとも此度の件で1軍の角笛城撤退を父上に進言したガルモドの責を問い、顧問官の職を解く事は叶おう程に、親子ともどもとはゆかぬまでも、先ずは上々と申しても良かろう。

 それに」

と、セオドレドはボロミアの緑の瞳を覗き込み、にっこりと笑って言った。

「こうとなれば蛇の舌とて、消えた小姓を是非にも探し出そうとは致すまいからな」

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