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酒仙酩酊(後編)

 

夕刻、訪問の伺いを立てる為ファラミアの居室を訪れたボロミアの使者を、具合が優れぬ故と返した後、夕餉の席にも出ず居室に篭もりやけ酒を呷っていたファラミアは、夜半に居室の戸を叩かれ「誰か」と不機嫌な声で誰何した。

「私だ」

そう言うボロミア声に、酷く意固地な気持ちになっていたファラミアは

「具合が優れませぬ故お目に掛かれませぬ」

と素っ気なく答えた。

しかしその返答を最後まで待たず、ボロミアは入って来た。

ファラミアが管を巻く机につかつかと歩み寄ったボロミアは、既に空になった2本の酒瓶を見遣り「持ってくるのではなかったな」と机の上にローハンの葡萄酒を置いた。

度数の高いローハンの“赤”を手に取ったファラミアの脳裏に、小面憎い隣国の継嗣の顔が浮かぶ。

勝手知ったる弟の部屋で、ボロミアがゴブレットを戸棚から取り出し弟の隣に椅子を引き寄せた時には、ファラミアは3本目となるローハンの“赤”を自らのゴブレットに注いでいた。

「飲み過ぎだ」

ファラミアの手から取り上げた酒瓶を再びボロミアから奪い取り、ファラミアはボロミアの杯に酒を注ぐ。

「兄上もお飲み下さい」

酒精に目の縁を朱く染めた目でファラミアにぎろりと睨まれ、ボロミアは小さく溜息を吐く。

ファラミアの隣に腰を下ろし

「どうしたのだ、ファラミア?

 そなたがこの様に酒を飲むなど」

と弟の顔を覗き込んだボロミアに

「お飲み下さい、兄上。

 角笛城ではセオドレド殿とお飲みになられたのでしょう」

と険のある声でファラミアは言う。

「セオドレド殿は負傷されておられたのだ。

 酒など飲んではおらぬ」

言いながらボロミアは形ばかり杯に口を付ける。

然程酒に強くないボロミアは、度数の高いローハンの葡萄酒が実はあまり得意ではない。

その酒をなぜわざわざローハンから持ち帰ったのかを気付く余裕が、今のファラミアには、ない。

「それで兄上が付きっきりで看病ですか?」

言う間にも酒を呷りながら、ファラミアは執拗にボロミアの杯に酒を注ぐ。

しょうことなくファラミアに付き合って杯を舐めながら、吐息混じりの声でボロミアが

「なぜ私がセオドレド殿の看病をせねばならぬのだ?

 久方ぶりにお目に掛かった故積もる話しがあったのだ」

とそう言った途端

「私も兄上にお会いするのは久方ぶりです!」

だん!とゴブレットを机の上に叩きつけ、叫ぶ様にファラミアはそう言った。

その剣幕に気圧され目を丸くするボロミアに、ファラミアは更に言い募った。

「兄上にお目に掛かれると思えばこそ、気の進まぬ議会にも出席しましたものを!」

ボロミアにしてみれば、ファラミアの話しの展開は支離滅裂である。

「ちょ…、ちょっと待て、ファラミア」

「待て?待てとは何をです?何を待てとおっしゃるのです?私はぁ、既に十~分待っております!」

ファラミアのその様子は立派に酔っ払いである。

「何を言っておるのだ、ファラミア。

 言っておる事がさっぱり分からぬぞ」

困惑した表情で言うボロミアに

「左様でぇしょうとも。

 兄上はぁ、何も分かって、おられぬのです」

箍の外れたファラミアは完全に目が据わっている。

呂律も何やら怪しくなっている。

「ファラミア…」

すっかり弱りきっているボロミアの様子は最早ファラミアの目には入っていない。

ファラミアは半分程に中身が減ったボロミアのゴブレットに酒を注ぎ、弱りきっているボロミアに差し出す。

「私はもうよい。

 これ以上は…」

酒に強くないボロミアがそう杯を返そうとするのを遮り、ファラミアは絡む。

「飲めぬと?私の酒は、飲めぬ、とおっしゃるのですかぁ?」

こうなるともう手が付けられぬ。

「分かった、飲む、飲むから」

と、ボロミアも飲まざるを得ない。

いい加減酒が回って目元を朱く染めたボロミアが酒の杯を口に運ぶのを、机の上に組んだ腕に顎を乗せ、とろんとした目で見上げたいたファラミアの

「兄上ぇ」

という声に「ん?」と杯から目を上げたボロミアは、ファラミアの続く言葉に、口に含んでいた酒を盛大に吹き出した。

「兄上はぁ、お美しい」

ごほごほとむせるボロミアの背を摩る様に、椅子から腰を浮かせたファラミアの手がボロミアの背に置かれるが、すっかり力の抜けているファラミアでは背中を摩っているのか、ただ単に抱きついているだけなのかは判別しかねるところだ。

漸く息を整え

「何を言い出すのだ、そなたは」

と弟の顔を覗き込んだボロミアは、そこに涙の膜で覆われ、水底で揺らめく様な水の色の瞳が自分に向ける、思いがけぬ程に真摯な眼差しを認め二の句が継げなくなる。

「兄上…」

「ファラミア…」

「私は…兄上を…」

涙が零れ落ちる寸前、ファラミアは自分の声がそう言うのを聞いた。

 

 

ファラミアの記憶はそこで途切れている。

 

ファラミアの腕の中で安らかな寝息を立てているボロミアの様子を見る限り、それ以上何か危うい事を口走ったり、不埒な所業に及んだ様には思えぬが、思い出してしまった以上ファラミアの背には冷たい汗が流れる。

現状から察するに、恐らく自分自身強か酔っていたボロミアが酔い潰れたファラミアを寝台に運び、そのまま自分も寝入ってしまった、というのがこの状況の真相だろう。

そうと思ってはみても、ボロミアが目を覚ました時の事を考えるとファラミアはとてもこうしてはおられぬ。

ボロミアの事であれば、目を覚ましてファラミアの顔を見たとて、怒り出すとか呆れかえるとかいう様な事はないであろうが、ファラミアとしては困惑されるのも気遣われるのも遣る瀬無い。

更にもっと悪ければ、ボロミアの表情が悲し気に曇るのを見る羽目になる。

そんな事になってはとても居た堪れない。

兎も角も、ボロミアが目を覚ます前に部屋から出なければ、とファラミアは腕の中のボロミアを起こさぬ様細心の注意を払い、そっと金の髪の下から自分の腕を抜き出した。

何程の間ボロミアを腕の中に囲っていたのか、流石に腕が痺れていた様で、一旦ボロミアの顔の横に手を付き痺れが収まるのを待った後、ボロミアが目を覚ましていない事を確かめ、ファラミアは小さくほっと息を吐いた。

その時になって漸くファラミアは、意図せず自分がボロミアの顔の横に両手を付いてボロミアを見下ろしている…という体勢になっている事に気が付いた。

“いかん…!”

と思ったが時既に遅く、ざわざわと肌が粟立ち、意に反して躰は動かない。

普段着衣を着崩す事のないボロミアの、寝乱れた着衣から覗く胸元の白さが目を射る。

“何を考えているのだ、私は。

 早く退かねば“

そうは思うのだが、長い金の睫毛が作る優しい影や薄く開いた桜色の唇に目は釘付けとなり、剰え下肢にはじわじわと熱まで溜まり始めている。

思考が麻痺するのを感じながらファラミアは、ボロミアの薄く開かれた桜貝の色の唇に引き寄せられた。

鼻と鼻が触れ合う程に顔を寄せた時、不意にぱちり、とボロミアが目を開けた。

不自然な前傾姿勢のまま固まったファラミアにぽやんと焦点の合わない目を向けていたボロミアは、ファラミアが口を開こうとしたその刹那、ふわりと微笑んで胸の上に弟の白金の髪を抱き込んだ。

声もなく息を飲んだファラミアの耳元で

「泣くな、ファラミア。

 大丈夫、ファラミアは愛されている。

 この兄がファラミアを愛している。

 何も心配ない」

ボロミアが言う、柔らかな天鵞絨の声が聞こえた。

 

 知っている

 そう、ずっと知ってる

 私はボロミアに愛されている

 ボロミアは私を愛している

 だから大丈夫

 心配する事など何一つない

 不安になる事など何もありはしないのだ

 いつかボロミアのその愛はゆるりと形を変え、望みを統べたもう神は

 その時私に微笑みかけるだろう

 例えイルーヴァタールであろうとも

 これ程強く、これ程深い愛で結び付けられた

 ひとつ心で繋がる私達を

 このままふたつ身に引き裂いてなどおけようはずもない

 私はボロミアを愛している

 ボロミアは私を愛している

 

ファラミアがそうっと顔を上げてボロミアの様子を伺うと、すっかり夢の国の住人に戻ったボロミアは、規則正しい健やかな寝息を立てている。

とうの昔にその背丈を追い越してしまったボロミアの胸に、子供の頃抱き合って眠った時の様にファラミアが背を丸めて頬を摺り寄せると、ボロミアはファラミアを腕に抱いたまま、ころんと寝返りを打ち弟の髪に顔を埋めた。

ボロミアの腕から伝わる温もりに、ファラミアは温かい想いで充たされる。

 

詮無き憂さも、身内の熱も、その温もりに優しく溶けていく。

 

ファラミアは自分を抱くボロミアの背にそっと手をまわして思う。

夜が明けてボロミアが目を覚ましたら、ボロミアに笑いかけよう。

“お早うございます、兄上”と。

きっとボロミアは笑い返してくれるだろう。

昨夜の事などまるで何もなかったかの様に。

“早いな、ファラミア。

 良く眠れたか?“と。

 

 一夜の闇が見せた朧な夢は、夜明けの白い光に晒され泡沫と消えるだろう

 

うっとりと瞳を閉じたファラミアの唇に微笑みが上る。

 

 けれど今はまだ夜明け前

 夜明けの白い光がその夢を掻き消す暫しの間

 消え残る泡沫の夢が薄闇に甘くたゆたう中

 私は腕の中のこの温もりに

 今少し、あと少し酔っていよう

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