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騎士と姫君(前編)

 

「まあ、イヴリニエル」

と、フィンドゥイラスは、その綺麗な碧の瞳をぱっちりと見開いた。

そしてそれから、にっこりと光の粒が零れる様に微笑んだ。

「まるで本物の騎士様の様に見えてよ」

 

 

石の国ゴンドールの都・ミナス・ティリスに、執政家の人となった姉・フィンドゥイラスを訪ね、ドル・アムロスからやって来た妹・イヴリニエルは、向かい合って座った姉の、その故郷に在った頃とは比べものにならぬ程、明るく生き生きと輝く笑顔を眩し気に眺めながら、一抹の寂しさを感じていた。

姉からその、日の光が零れる様な笑顔を引き出したのは、自分からこの美しい姉を奪っていった時の執政・エクセリオンの嫡男・デネソールその人である事を、イヴリニエルはよく承知していた。

デネソールの妻となったフィンドゥイラスの美しさは“ドル・アムロスの黄金の真珠”と謳われた頃より一層艶やかで、見る者を幸せにさせずにはおかぬその笑顔には、溢れんばかりの幸福感が満ちていた。

 

「どうしたの?」

じっと姉を見詰めていたイヴリニエルは、姉のその声でふっと我に返った。

「何でもないわ」

“お姉様があまりにもお美しかったから見惚れていたの”

という言葉は、端正に作った笑顔の裏にそっと忍ばせた。

 

その時控え目に部屋の戸を叩く音がして「奥方様」と戸外から声がした。

フィンドゥイラスが「どうぞお入りなさい」と、扉の外に優しく声を掛けると、扉を開けて顔を覗かせたのは、イヴリニエルも見知ったフィンドゥイラス付の若い女官だった。

「あの、フィ…奥方様、今日は…」

困った様に口籠るその女官を見て小首を傾げたフィンドゥイラスは「ああ、そうね、今日だったわね」と、手を打って少女の様に愛らしい笑顔を見せた。

「お姉様?」

「今日は下層階に行くつもりでいたの。

 でも貴女が訪ねて来てくれたのが嬉しくて、つい忘れてしまっていたわ」

そう、にっこりと微笑む姉のその言葉に、イヴリニエルはふわりと胸の内が浮き上がる様な昂揚感で、つい頬が緩んだ。

「あの…では、本日はお止めになりますか、奥方様?」

そう問う女官に「そうね」と、姉がその細く美しい指を頬に当て小首を傾げるのを目にしたイヴリニエルは、そこではたと気が付いた。

「ラライス」

と、戸口に控えていた若い女官を手招きしたイヴリニエルの声に「はい、姫様」と、ラライスと呼ばれたその小柄な女官はイヴリニエルに駆け寄り、丈高い主の妹姫を青い瞳で見上げた。

 

イヴリニエルはその若い女官の顔を見て、不思議な感慨に捉われた。

姉に付いてドル・アムロスを出立する時にはまだ幼さの残る少女の顔だったその若い女官は、今ではすっかり大人の表情になっている。

 

「イヴリニエル様?」

「あ、ああ…、あの、下層階へ行くというのは、お姉様が、という事なの?」

イヴリニエルの問いにラライスが答えるより早く、フィンドゥイラスがころころと鈴の鳴る様な声で笑った。

「そうね、イヴリニエル。

私が市井になんて、とても信じられないわね。

殿にお許しを頂いた時には城中が大騒ぎになったくらいだもの」

 

ドル・アムロスに在った頃には市井に出るどころか、宮中からすら滅多に出る事のなかったフィンドゥイラスは、輿入れの際、ミナス・ティリスの大門から最上階である第7階層へ向かう途中の下層階で、次期執政の妻となるドル・アムロスの姫を乗せた輿に花を撒く市井の民を御簾の隙間から垣間見て、彼等の素朴で真っ直ぐな、力強い希望に満ちた瞳の輝きに魅了された。

フィンドゥイラスはその日のうちに「民の暮らしを見てみたいのです」と、夫となったデネソールに告げ、デネソールは妻の願いを「好きにするが良い」とあっさり聞き届けた。

但し、“次期執政の妻による下層階の視察”では、警護に当たる近衛兵の勤務調整や視察先となる下層階の民の準備等、歳費にも民の暮らしにも負担が掛かる故、お忍びで行く様にと。

 

楽しそうにそう語る姉の姿を、アヴリニエルは唖然と見詰めた。

「ご政務のご都合がお有りになるから、殿には下層階に行く日をお伝えしてあるのだけれど…」

と言いかけたフィンドゥイラスは「そうだわ」と手を打って目を輝かせると、

「イヴリニエルも一緒に行きましょう」

そう声を弾ませた。

「え?私…?!」

これには流石のイヴリニエルも、咄嗟に声が裏返った。

ドル・アムロスではじゃじゃ馬で知られたイヴリニエルだったが、そのイヴリニエルを以てしても、大公家の姫ともあろう身で市井にお忍びで出掛けるなど、考えも及ばぬ事であったのだ。

しかしすっかりその気になっているフィンドゥイラスはにこにこと妹の心を擽る笑顔を振り撒くと「ね、イヴリニエル」と、そのほっそりと美しい手でイヴリニエルの手を取り、自らには全く自覚のないまま妹にとどめを刺した。

イヴリニエルはうっとりと姉の美しい白い手に見入り、ついうっかり

「ええ、お姉様、ご一緒するわ」

と言ってしまった。

慌てて取り繕おうとしたが

「まあ、嬉しいわ、イヴリニエル」

と、その美しい手をした姉に、花の綻ぶ様な笑顔を向けられてしまっては、最早自らの言葉を覆す事は出来なかった。

仕方なく覚悟を決めたイヴリニエルは

「でもお姉様、まさかその服装のまま下層階へ行くわけではないでしょ?」

と、念の為聞いてみた。

「ええ、麻のドレスを用意してあってよ。

 初めは民と同じ木綿で良いと言ったのだけれど、それは皆に止められてしまったの」

そう屈託なく笑う姉の姿に、思わずラライスに目を遣ったイヴリニエルは、同じ様にイヴリニエルを見上げたラライスと目が合った瞬間、同じ様に小さな吐息を漏らした。

 

絹のドレスを麻にしたところで、姉の美しさは隠し様もない。

それが木綿など着れば、逆の意味で異様に目立ってしまうだろ。

しかし昔から姉には自分の美貌に対する自覚というものが全く無い。

それ故無邪気に無防備に、その花の笑顔を所構わず振り撒いてしまうのだが、それが何程人を惹きつけてしまうのかという自覚も、当然の事ながら、全く、無い。

この様な姉を、お忍びなどで市井に出してよいものだろうかと、イヴリニエルは何やら心許なくなってきた。

「士族の姫を装うのよ。

 この歳で姫君だなんて可笑しいでしょ?」

そうクスクス笑う姉は、姫君と呼ばれる事に全く何の違和感もないのだが、やはり姉自身にその自覚は全くない。

そんな姉を見遣りながら、やはりこの様な姉を、軽々に市井に出したりせぬ方がよいのでは…と考えたイヴリニエルが口を開きかけた時、フィンドゥイラスが

「あら、困ったわ」

とイヴリニエルを見上げた。

邪気のない姉の翠の瞳に見詰められ、思わずイヴリニエルは言いかけた言葉を飲み込み

「何が困ったの、お姉様?」

と問い返してしまった。

「イヴリニエルに合う麻のドレスがないの」

困惑気味に眉を曇らせた姉の表情に、イヴリニエルは軽く脱力した。

 

華奢ではあるが、姉は5尺3寸程の背丈があり、小柄というわけではない。

しかしその姉に合わせて仕立てたドレスでは、姉より更に3寸を上回る上背のあるイヴリニエルに丈の合おうはずがない。

そもそもイヴリニエルは、6尺を優に超えるデネソールの様な偉丈夫と並んだならいざ知らず、並みの男となら、並び立っても一向に引けを取らない程の上背があるのだ。

 

そこでイヴリニエルは、ふと悪戯心を起こした。

大体今日は、姉に驚かされっ放しなのだ。

自分も少しくらい姉を驚かせてみても罰は当るまい。

 

「ではドレスではなく、殿方の着衣を着てみてはどうかしら?」

「殿方の?」

思惑通り、姉はその翠の瞳を綺麗にまあるく見開いた。

「妹ではなく、弟としてお姉様とご一緒するの」

きょとんとイヴリニエルを見る姉の姿に内心ほくそ笑んだのも束の間、フィンドゥイラスは

「まあ、素敵」

と、手を打って微笑んだ。

「え?」

慌てたのはイヴリニエルの方だった。

「何て素敵な思いつきかしら、イヴリニエル」

「お、お姉様…?!」

「そうするとどなたかの着衣をお借りしなくてはね。

 どうしましょう、殿の長衣では大き過ぎるし…」

と思案顔になった姉を思い止まらせ様とイヴリニエルが口を開くより先に、それまで二人の遣り取りを大人しく見守っていたラライスが

「奥方様」

と声を掛けた。

「なあに、ラライス?」

と微笑む姉に、その若い女官は

「革鎧の様な物で良ければ、当てがあるのですが…」

と微かに頬を染めて告げた。

「ラ、ラライス?!」

イヴリニエルのその悲痛な叫びは、ラライスの耳も、フィンドゥイラスの耳も、きれいに素通りした。

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