がんばれ!ファラミア
~執政家に首ったけ~
イルーヴァタールの贈り物(前編)
「兄上」
冬枯れの蔓薔薇に囲まれたベンチで眠る兄に、ファラミアは控えめな声でそう呼び掛けた。
ミナス・ティリスに幾つかある園庭の中でも執政家の者だけが立ち入る事を許された薔薇の東屋を持つこの園庭は、特に兄が気に入っている場所のひとつだ。
剛勇の士として名高い兄は、しかしその世評とは別に、緑を愛し小さな草花を慈しむという、世評に語られぬ顔を持っている。
中でも亡き母が愛したこの東屋を取り分け大切に思っている兄は、花のないこの季節でも僅かな時間を見つけては、園丁なども連れずに自ら足を運び、一人黙々と下草の手入れなどして過ごしている。
唯それを知っているのは弟であるファラミアと、そして恐らくは彼らの父、デネソールだけだろう。
人に告げずこの東屋を訪れる兄が、一人何を想って過ごすのか、それを考える時ファラミアは、ちりちりと胸の奥が焼ける様な痛みを感じずにはいられない。
小春日和の陽だまりで微睡む兄の、彫の深い彫像の様な寝顔をじっと見詰めていたファラミアは、ふと兄がこのまま目覚めないのではないかという錯覚に捉われ、背筋を駆け抜ける鋭い冷気を感じた。
身を屈めもう一度
「兄上」
と呼び掛けたファラミアの声に応える様に兄の睫毛が微かに震えるのを確かめると、ファラミアは僅かにほっと胸を撫で下ろした。
と同時に、兄の瞼を覆う濃い疲労の色がファラミアの青い瞳を暗く過った。
“お疲れになっておられるのだ”
ふた月程前、ファラミアは敵の補給基地を奪取する作戦で兄と共にニンダルヴの戦場に立った。
本来執政家に兄弟がある場合、同時に後継が絶たれる危険を避ける為、兄弟が同じ戦場に立たぬのがゴンドールの通例である。
それ故ファラミアは、それまで戦場で兄と轡を並べる事も、野営地で兄の側近くに天幕を張る事もなかった。
初めて兄と戦場を共にしたファラミアはその野営地で、だからこそそれまで知り得なかった大きな不安を抱え込む事となった。
追い打ちを掛ける様にその作戦の後敵兵達の行動が先鋭化した。
それまでは夜陰に乗じ街道から外れた村々を襲っていた敵兵達が、昼日中から街道沿いの町に姿を現す様になった。
以前ローハンで捕縛されたという大型のオークがしばしば確認される様にもなった。
行動が先鋭化したオーク達を討伐する為、兄自身が軍を率いて出陣する回数は僅かふた月で倍増した。
だが兄を傷つけているのはその出陣の回数ではない。
戦の度失われていく兵の数こそが兄を深く傷付けているのだ。
補給線も退路も視野に入れなくなった敵兵達の後先考えぬ無謀な攻撃は、無謀であるだけに動きが読めない。
ミナス・ティリスの近衛達は善戦しているが、命を惜しまぬ敵兵に道連れとされる事も多く、更に斃しても斃しても敵兵の数は一向に減らないのだ。
自軍の兵が回復するのを待たず、黒の勢力は矢継ぎ早に新たな兵を送り出してくる。
愛する民の命ばかりが失われていく、その事実がどれ程兄を傷付けているか、それを思うとファラミアの胸はきりきりと痛んだ。
“お守り致さねば”
濃い影の差す兄の寝顔を見詰めながら、ファラミアは僅かに唇を噛み締めた。
「ファラミアが?」
顔を上げたデネソールの前で困惑した面持ちの侍従が「心当たりはお探し申し上げたのですが…」と言葉を濁した。
「そうか、分かった。
大儀であったな。
下がってよいぞ」
そう侍従を下がらせたデネソールは、執務机の上に広げた羊皮紙に視線を戻し、書き終えたその羊皮紙を几帳面に丸めて封をすると、机の抽斗から小さな木箱を一つ取り出した。
次男の行先には心当たりがある。
木箱のふたを開けようとして手を止めたデネソールの、灰色のその瞳に箱の蓋に嵌め込まれた細密画の中で生まれて間もない次男を腕に抱いて微笑む妻と、その妻を囲む“家族の肖像”が映っていた。
その箱の中には薔薇を模った瀟洒な銀の鍵が収められている。
丸めた羊皮紙を手に薔薇の東屋を持つ執政家の園庭に向かうデネソールは
“随分と久しぶりだ”
そう思った。
年の瀬には珍しい暖かな日の温もりを頬に受けたデネソールの脳裏に、ふと箱の蓋に嵌め込まれた細密画の中で妻の傍らに立っていた、義妹の青い瞳が蘇った。
王家の者でさえ立ち入る事を許されぬ、執政家の為だけに在るその園庭は、オンドヘア王の執政であり、またエアルニル王の執政でもあったペレンドゥアが、オンドヘア討死の後、彼の甥であるエアルニルが王に即位するまでの一年間、王に代わり国を治めた際、病弱であった息子の嫁が心静かに過ごせる様にと造らせたものだ。
それ故園庭の門を開く鍵は、息子と息子の嫁、ペレンドゥアとそしていずれ生まれるであろう孫の為、複製されぬ様複雑な形状の鍵山を持つ四本だけが鋳造された。
大層薔薇の花を愛した嫁の為、薔薇の花を模った銀の細工で頭部を飾ったその鍵は、以後家族の数に関わらず、その四本だけが執政家に代々受け継がれている。
デネソールの父エクセリオン二世は、初孫が三歳を迎える年に、その四本のうち自らが所有する一本をデネソールに譲り渡した。
その頃ゴンドールの重臣達は、西方の血を継がぬその孫を廃嫡し、同じく西方の血の恩寵を受けぬデネソールの妻をも廃し、ひいては執政家そのものを弾劾しようとの動きを見せていた。
その事態を憂慮したエクセリオンは、言外にいずれこの鍵を所有するであろう西方の血を継ぐ次子を儲けよとの意を込め、息子にその鍵を引き渡したのである。
だがデネソールはその鍵を、公務としてミナス・ティリスを訪れていた妻の妹、ドル・アムロスの公女イヴリニエルに託したのだった。
彼には嫡男の外に子を望む気持ちはなく、妻とその妹の間にある強い姉妹の絆を十二分に解していたからである。
その頃のイヴリニエルは、嘗て“ドル・アムロスのじゃじゃ馬姫”と呼ばれた自由闊達な気質がすっかり影を潜め、憂いすら感じさせる佇まいを身に纏っていた。
彼女は姉がデネソールに嫁いだ後も、ドル・アムロスからの長途など物ともせず、度々姉に会う為ミナス・ティリスを訪れていた。
だが姉の懐妊が知れた頃から彼女のその足が遠退いた。
イヴリニエルは、徐々に姉との間に距離を取り始めた。
ミナス・ティリスを訪れる回数がめっきり減り、やがて公務でミナス・ティリスを訪れる“ドル・アムロスの公女”が彼女の“顔”になった。
デネソールはその義妹に園庭の鍵を託すと言ったのだ。
義兄から手渡された掌に乗る美しい銀の鍵を食い入るように見詰めていたイヴリニエルの、戸惑いに揺れる青い瞳の奥に、その時確かに微かな驚喜の光が点った。
しかしそれでも尚彼女が再びミナス・ティリスを訪れるまでには二年の月日を要した。
二年ぶりにイヴリニエルがミナス・ティリスに姿を現したのは、執政家の第二子として生まれた次男ファラミアの誕生を祝う為、ドル・アムロスの大公一家がミナス・ティリスを訪れる旨を告げる為の先触としてであった。
それはファラミア誕生から三箇月以上経つ、年の終わりも近い12月24日の事だった。
ドル・アムロスの公女としてデネソールの前に立ったイヴリニエルは思い詰めた表情で人払いを願い出ると、義兄と二人きりになった白の塔の大広間で、被っていた公女の仮面を脱ぎ捨てた。
つかつかと義兄の前に歩み出たイヴリニエルは微動だにせぬ義兄の前に白い拳を突き出し、くるりと手首を返すと、握り締めていた拳を大きく開いた。
「これをお返しに上がりました」
硬い声で言う義妹にデネソールは
「返せと申した覚えはない」
そう答えた。
「でも…」
と、戸惑う義妹の声にデネソールはきっぱりと言い切った。
「次男がその鍵を必要とする時もいずれ来ようが、今はまだその時ではない。
その時まで鍵はそなたのものである」
「私の…」
呟いたイヴリニエルは、暫し掌に乗る鍵をじっと見詰めた後、ぎゅっとその掌を握り締めた。
「丁度その鍵を持参した事がそなたの役に立つであろう」
その声にはっと顔を上げた彼女にデネソールは、表情を変えぬまま語を継いだ。
「そなたが先触として参ろうとは思っておらなんだのでな、朝餉の後、今日は加減が良い故庭が見たいと申して館を出た」
イヴリニエルの青い瞳が義兄の言葉に“じゃじゃ馬姫”と呼ばれていた頃の輝きを取り戻した。
「お一人ね?」
弾んだ声で問う義妹に
「ファラミアは侍女が看ておる」
義兄のその言葉が終わらぬうちに、イヴリニエルは大広間の扉に向かった駆け出していた。
扉の把手に手を掛ける寸でに立ち止まったイヴリニエルは、くるりと義兄を振り返ってこう言った。
「中つ国であなたが三番目に好きよ、大鷹侯」
弾ける様な笑顔を残してドレスの裾を翻し、塔の外に駆け出す義妹の背を見送るデネソールの口の端に、微かな笑みが浮かんでいた。
「お姉様」
冬枯れの蔓薔薇に囲まれたベンチで眠る姉に、イヴリニエルは控えめな声でそう呼び掛けた。
小春日和の陽だまりで微睡む姉の、白磁を思わせる滑らかな肌の上ではちらちらと穏やかな冬の日差しが踊っている。
その様子をじっと見詰めていたイヴリニエルは、躊躇いがちに姉の上に身を屈め
「フィンディ」
そう小さくそっと囁いた。
息を詰め、姉の立てる軽い寝息に耳を欹てていたイヴリニエルは、その囁きが姉の眠りを破らなかった事を確かめ、ほっと小さく息を吐いた。
口に出してはならない呼び名だと胸に秘めてきた。
口に出してしまえば人の則を自ら踏み越えてしまうのだと。
けれど、それでも尚口にせずにはいられなった。
物心が付くより早く、いつもその姿を求めていた人。
人の妻となっても子を持つ母となっても、想いを断ち切る事が出来なかった人。
人の則を越えるその想いを認めてしまえば多くの人を傷つける。
あの大鷹侯さえ。
それでも。
「フィンディ」
イヴリニエルは押し殺した声で囁いた。
「貴女を
愛している」
屈み込んだその背を淡い光で暖める蒼い空に懸かる冬の陽だけが、姉の白い額にそっと口付ける彼女を、静かに、唯静かに見ていた。