top of page

名にし負う、王と呼ばるる 10  -久遠-

 

 

名にし負う

王と呼ばるる身なれども

我が身虚しき

半月<はんげつ>の夜

 

 

中つ国 第4紀120年 3月1日

 

ぎゅっ、と篭手の革帯を締めたエレスサールは、その篭手に初めて腕を通した日の記憶が蘇るのを振り払う様に一つ小さく首を振った。

誰よりも大切な存在を失わせたのは他ならぬ自分自身なのだ。

その傷は百余年過ぎた今でもエレスサールの胸を鋭く斬り付ける。

篭手には尽きせぬ愛しさと共にその痛みもまた含まれている。

出来うるものであれば目を背けていたかったその痛みから目を背ける事を許さなかった男の顔が眼前にちらつき、エレスサールは僅かに眉を顰めた。

ボロミアによく似た、しかし対極にある彫像の様な白皙の貌。

自分自身が死の淵から引き戻した男。

戴冠式の間中新王が腕を通した篭手から目を離さなかった男の貌が。

その男を執政に任じたのは新王となったエレスサール自身だった。

 

 

戴冠式から4日後、敢えてボロミアが誕生したその日にエレスサールは人払いした玉座の間でその執政と対峙した。

“王と執政”として。

執政となったその男は王の前で身を正し、唯静かに立っていた。

しかしその全身から立ち上る蒼白い炎の揺らめきは隠しようもない。

“いや…隠すつもりもないか”

エレスサールの胸中を見透かした様な冷たい声でその男が言う。

「今日この日にわざわざお召しになられる程の御用向きとはいかがなるものでありましょう、エレスサール…王」

「ふん」

とエレスサールは鼻を鳴らした。

「今日わざわざこの日だからだ、イシリエン大公」

「イシリエン…大公?」

眉を顰めた男の足元に、エレスサールは巻いて封をした羊皮紙を放った。

「大公の肩書を付してイシリエンに所領地を与える…と言えば体裁は整うだろう?

執政はあくまで名のみ、それはそなたも承知の上だと思っているがな、弟殿」

「邪魔者を追い払うには丁度良い肩書、という訳ですね」

足元の羊皮紙に一瞥もくれず、ひやりとした声でファラミアは答える。

「ならばなぜ私を彼岸の淵からお引き戻しになられたのですか」

ファラミアのその声にエレスサールは口元を歪めた。

「そなたをボロミアの許になど往かせると思うのか?

 この私が?」

凶悪な笑顔でそう返すエレスサールに冷たい目を据えたままファラミアは鋭く言った。

「あれは…父上の“慈悲”でした」

「息子を死地に送る事がか?」

凶悪な笑みを崩さぬまま言うエレスサールに、ファラミアの口元には氷の刃を思わせる笑みが浮かぶ。

「ボロミアの許になど往かせぬ、と、あなたご自身が仰ったではありませんか。

 私はアンドゥインであの船を目にした時から、ボロミアの許に往く事だけを望んでいました。

 けれど…」

視線を落としたファラミアの言葉を、エレスサールは胸の内に引き取った。

“そうは云えぬであろうな。

 ボロミアがそれを望まぬと分かっていて“

「だから“慈悲”、という訳か」

視線を落としていたファラミアが、す、と目を上げる。

「“慈悲”です」

暫しその見る者を凍て付かせる視線を受け止めた後、エレスサールはふっと表情を緩めた。

「しかし今そなたはここに居る。

 ボロミアがなるはずであった執政として、な」

ファラミアはその言葉にぎゅっと拳を握り締めた。

「任じたのは…あなたです、エレスサール王」

「任じぬ訳にはいかぬであろう」

エレスサールは玉座の上でだらしなく踏ん反り返った。

「執政家を潰したとなればまた…」

「また?」

訝し気な目でそう問う“執政”の声は、その時王の耳には届かなかった。

“また…ボロミアを泣かす…”

エレスサールの心はアラゴルンに還り百年を過ぐる時を遡る。

“あの時…聞き咎めさえしなければ…”

 

 

「ファラミア…」

その声にアラゴルンの指先はボロミアの鎖骨の上で凍り付いた。

 

夕食に一服盛った秘伝の薬草は効果絶大だった。

エルフであるレゴラスでさえ正体も無く眠り込んでいる。

皆疲れ果てている、それも一因だろう。

特にボロミアは目に見えて疲労の色が濃い。

常に首元まできっちり留めてある胴着の留具を外しても身じろぎひとつしなかった。

ロスロリアンを発ったその時から、アラゴルンにはどれ程抑えようと足掻いても、胸に秘めたその情動を抑え切れなくなっていた。

ロスロリアンの森の中で嘗てソロンギルであった頃に“視た”ボロミアの、潤んだ瞳でアラゴルンを見詰める現実の姿を見、その口から「共に帰ろうミナス・ティリスに」という言葉を聞いた瞬間、既にアラゴルンの熱望は限界を超えていたのだ。

光の奥方が統べる領国の内でさえなければ、自分でも何をしたか分からなかった。

アラゴルンとしては、寧ろ翌日ロスロリアンを発つまで気持ちを封じ込めておけた事が奇跡と言ってもよかった。

ロスロリアンを経ってからこの日まで、一日一日がどれ程長かった事か。

しかしそれ故にアラゴルンは、ボロミアの心が一人祖国へ、祖国へと向かっている事に気付けなかった。

口を開けば祖国への想いばかりが口を衝いて出るボロミアに理不尽な苛立ちを募らせた。

“ボロミアがミナス・ティリスに奪われる”

そんな埒もない焦燥にさえ襲われた。

姑息な手まで使って漸く腕の中に囲い込んだボロミアの、初めて現実に触れる滑らかな白い肌にはち切れんばかりの切望で胸を膨らませ、長い長い時、口付ける事を待ち望んだ唇に自らの唇を重ねようとしたその刹那、求めて止まぬ想い人の唇からあえかな声で

囁かれその名に、アラゴルンは息を吞んだ。

自分自身が一服盛った事さえ忘れ、がくがくとボロミアの肩を揺さぶったアラゴルンは、朦朧としたボロミアを激しく詰問した。

「なぜその名を呼ぶ!

 なぜファラミアと!」

「ファラ…ミア…?」

焦点の合わない瞳でアラゴルンを見上げていたボロミアはそう呟くと、胸倉を掴むアラゴルンの手に力の籠らぬ手を添え、ゆっくりと半身を引き上げた。

「弟…なのだ…都に残してきた…」

アラゴルンの顔など見えていないかの様な遠い目をしてボロミアは言った。

「その都が既に敵の手に落ちているやも知れぬと思うと…。

 私は…不安でならない…」

両手で顔を覆ったボロミアの細かく震える肩がアラゴルンの肚の内にどす黒い妬みを呼び起こした。

「それ程祖国が…“弟”が…心配か?」

その言葉にぱっと顔を上げたボロミアが、珍しく怒気を含んだ声で切り返す。

「当然であろう!

 弟なのだぞ!

 愛する弟が居る祖国だ!

 心配せぬ者がどこに居る!」

“愛する…弟…?”

ぎゅっと拳を握り締めたアラゴルンの耳には、再び両手の間に顔を埋めたボロミアの言葉は届かなかった。

「愛する祖国…、愛する民、愛する弟、愛する父上…。

 そして…」

“愛する弟…か”

 

 

エレスサールは目の前に居るその“愛する弟”に暗い炎が揺らめく視線を向けて

「ファラミア」

そう呼んだ。

呼ばれたその名の主が肩眉をぴくりと跳ね上げるのを暗い目で見たエレスサールは歪んだ笑いを口の端に上せた。

“あの時その名を耳にさえしなければ…”

「私は、そなたが嫌いだ」

“そうでなければボロミアに、指輪をそなたの祖国に近付けぬ、などとは言わなかった。

 泣かせたりなどしなかった。

 追い詰めたりなどしなかった。

 私はボロミアを…ミナス・ティリスにではなく、そなたに近付けたくなかったのだ“

「故にそなたは“私の執政”などではない。

 安心してよいぞ」

「安心も何も、私があなたを“我が王”などと呼ばねばならぬ所以は御座いません」

“我が王”という言葉が未だ癒えぬアラゴルンの傷を抉った。

「当然だ。

 そなたが“我が執政”ではない様に、私もそなたの王などではない。

 私が王となったのは、ボロミアが私を“我が王”と呼んだからだ。

 “我が王”と、ボロミアが、私を、呼んだのだぞ?」

じっとエレスサールを見詰めていたファラミアが静かに口を開いた。

「だから?それが何だというのです?」

ファラミアの平板な声にアラゴルンはかっと頭に血が上るのを感じた。

「“我が王”と、呼んだのだ、ボロミアが、私を!

 そうでなければ!」

玉座から立ち上がったアラゴルンは頭上の王冠を剥ぎ取り、それをファラミアの足元に向かって投げつけた。

「誰が王などになるものかっ!」

床に当たって高い音を立てた王冠は、その床を滑ってファラミアの足元に在った羊皮紙を跳ね飛ばした。

王冠をちらりと一瞥したファラミアはエレスサールに視線を戻して言った。

「あなたがボロミアの言葉をどの様にお取りになったにせよ、ボロミアは“王と執政”の密約など…ご存知ありませんでしたよ」

「知らな…かった…?ボロミア…が?」

「それを父上から伝えられたのは私です。

 ボロミアではありません。

 ボロミアは、ご存知ではありません」

ファラミアのその言葉にエレスサールは、がくり、と玉座に崩れ落ちた。

「知らな…かった…ボロミアが…」

呆然と呟いたエレスサールは、その様子をじっと見詰めていたファラミアの前で、突然堰が切れた様に笑い出した。

漸く笑いが止んだ時、片手で玉座の肘掛を掴み体を折ったエレスサールの泣き笑いは、もう片方の掌の中に在った。

王冠を拾い上げたファラミアは階段を上り玉座の一段下で足を止めると、それを王の膝の上に置いた。

「ボロミアは唯只管純粋に、あなたが亡国の汀に在る祖国を救う王になる事を望んだのです、エレスサール王」

顔を覆っていた手を下ろし、エレスサールは膝の上の王冠に目を落とした。

「私が執政の職を受けたのは、それがボロミアの望みだと分かっていたからです。

 なれば私があなたの執政であろうはずがない。

 私は正しくボロミアが望んだ通り、祖国に仕える執政となる道を選んだのです。

 そしてあなたが未だ手放さぬ、本来私のものであるはずの、この」

と、ファラミアがエレスサールの腕に巻いた篭手を指先で突き、「篭手を」そう口にした瞬間エレスサールは彼の手を振り払った。

「これは私のものだ!」

「そうおっしゃるのであれば」

ファラミアは彼の父にも通じる冷厳な声で言った。

「あなたはボロミアが望んだ…真の“名にし負う王”にならねばなりません」

そう言葉を切ったファラミアは、一言一言噛み締める様に次の語を継いだ。

「ボロミアの為に」

アラゴルンはその言葉にぐっと奥歯を噛み、膝の上の王冠を握り締めた。

ファラミアはエレスサールのその表情を確かめると、にこり、と作り物めいた笑顔を浮かべて言った。

「では御用もお済の様ですので、私はこれにて失礼させていただきます」

くるり、と踵を返して玉座への階段を降り、床に落ちた羊皮紙を拾い上げたファラミアは玉座の間の大扉の前で立ち止まり

「ああ、そういえば」

と王を振り返って長衣の袖から1本の鍵を取り出した。

「ボロミアの部屋の鍵はここにあります」

がたり、と玉座から腰を浮かせた王に向かい、青い目のイシリエン大公は涼やかに微笑んだ。

「政務の合間に私がお部屋の空気を入れ替えておきますので、王に於かれましてはご心配無用に存じます」

嫣然と微笑んだまま玉座の間から出て行くイシリエン大公に向かって投げつけられた王冠は、閉じられた扉に跳ね返され、床の上にからからと虚しく転がった。

 

 

エレスサールは腕に巻いた篭手から目を上げ、ふっと表情を弛緩させた。

40年程前にイシリエン大公が逝った時の言葉が脳裏に蘇っていた。

“これで漸くボロミアの許へ参れます”

 

彼はボロミアの望んだであろう通り、祖国に尽くす執政の務めを立派に果たし天寿を全うした。

彼の満ち足りた幸福そうな死に顔が瞼の裏に浮かぶ。

自分もあの様な表情で逝けるだろうか、とエレスサールは思う。

小机の上に置いた羊皮紙の小さな書付を取り上げ、エレスサールはそれに目を落とした。

 名にし負う

 王と呼ばるる身なれども

 我が身虚しき

 半月の夜

窓辺に歩み寄り、エレスサールは澄み渡る青い空を見上げた。

 逝けるだろう

 そう、逝けるだろう

ボロミアが望んだ“名にし負う王”として生きて来た120年の時を、エレスサールは思った。

“上古の王より連綿と受け継がれてきた、王の執政への渇望は今日この日に終わる”

エレスサールは手の中の羊皮紙をびりっと引き裂いた。

“”王と執政“の軛から逃れ得なかった彼等の…そして私自身の真の望みを叶える為”

手の中で細かく引き裂いた羊皮紙を、エレスサールは窓辺から高く外に向かってまき散らした。

春の風に乗って舞い上がる花びらの様な羊皮紙にエレスサールは目を細める。

“今日私は玉座を降り、唯一人の想い人を追い求める一介の野伏に還る。

 伝えられなかった声、届けられなかった言葉を想い人に届ける為、その言葉が届くまで、永遠に。

 追い続ける。

 愛している、愛している、愛している、ボロミア“

アラゴルンが見上げた目の先で、白い羊皮紙の破片が青い空に溶け込む様に高く高く舞い上がり、日の光にきらきらと眩しく煌いていた。

 

 

 

-了-

bottom of page