がんばれ!ファラミア
~執政家に首ったけ~
名にし負う、王と呼ばるる3 –王都(前編)-
王都に住まうは雅な貴人に非ず
灰青色の瞳に冷たい笑みを隠し
人望篤い将軍は胸の内で呟いた
魑魅魍魎が跳梁跋扈する
伏魔殿を王都と呼ぶか
灰青色の瞳が見据えた先で
王都の司の嫡男の
冷厳な灰色の瞳は
沈黙を守った
中つ国 第3紀 2956年 春
中つ国の北方エリアドールの荒地から南方王国ゴンドールを目指す航程は、穏やかな順風に恵まれて春の初めからひと月程の航海となった。
西廻りの船が北域を抜け、海の色が日増しに明るく変わっていく頃になると、アラゴルンは我知らずうきうきと気持ちが浮き立つのを感じ始めた。
南方への渡航は自らの望みだけでなく、エルフの思惑をも含んだものではあったのだが、それでも初めて見る南の海は、アラゴルンを惹き付けて止まなかった。
出帆する前から水夫達に何度も聞かされた、海の沿岸部を縁取る砂浜の眩しい白も、水面に踊る日射しの輝く金も、それはアラゴルンの想像を遥かに超える美しさだった。
しかし何よりアラゴルンが心惹かれたのは、南の海の明るく澄んだ暖かい碧の色だった。
その海の色を初めて目にした時、誘う様に柔らかく波打つ碧の色の中に、我が身を沈めてみたい、という衝動に、アラゴルンは駆られた。
澄んだ碧の温もりに自身が包み込まれる心地良さを思うと、アラゴルンは得も言われぬ恍惚感に酔った。
それからアラゴルンは、船が南方の連絡港エゼルロンドに着くまでの間、日々船の舳先に立ち、碧の水面を切り裂いて進む白い波頭を、飽く事無く眺めて過ごした。
季節が初夏を迎え様という頃、アラゴルンはエゼルロンドの港に降り立った。
“灰色の放浪者を探せ”
エルロンドは言ったが、アラゴルンにその気は更々なかった。
とは言え特段行く当てもなかったアラゴルンは、いつでも海が眺められる様にと、アンファラス沿いに西へとぶらぶら移動した。
ゴンドールの王都であるミナス・ティリスを目指すならば当然東に向かうべきなのだが、それはアラゴルンの意図するところではない。
寧ろ下手にミナス・ティリスを目指して賢者などに出くわしては堪らない。
どこへという目的を定めぬまま西へ向かったアラゴルンの旅は気楽だった。
夏の日射しをたっぷりと浴び、北方では滅多にお目に掛かれない薄着の女達と汗を分け合い、南国気分にどっぷり浸かったアラゴルンは、骨の髄まで弛緩した。
そのアラゴルンが頭から冷水を被せられたのは、吹く風に秋の気配を感じられる様になった頃だった。
ふらりと立ち寄ったピンナス・ゲリン近くの酒場で奇妙な帽子を被った老人に
「お前さん、ミスランディア<灰色の放浪者>を探しておるのじゃないかな?」
そう声を掛けられたのだ。
どこか悪戯っぽく片目を瞑って見せたその老人こそが、エルロンドの言う西方の賢者“灰色のガンダルフ”である事は言わずもがなだった。
そうである以上、内心嫌々ながらもアラゴルンは、エルロンドから預かった書状を渡さぬ訳にはいかなかった。
書状に目を通した老人は、訳知り顔で「うむ」と呟き「では参ろうかの」と立ち上がった。
“お目付け役、という訳か”
胸の内でそう溜息を吐いたアラゴルンの、明るい南の海を眺めて過ごす浮かれた夏は、その夜終わった。
その後ピンナス・ゲリンを西に大きく迂回して北に進路を変えたアラゴルンとガンダルフは、ゴンドールの同盟国ローハンへと向かった。
道々敵情の視察をしたり古い記録の足跡を辿ったりしながらの行程は遅々として進まず、2人が漸くローハンに入ったのは、その年も終わりに近い頃だった。
“今はまだ素性を明かすべきではない”との魔法使いの言に従い、アラゴルンはその魔法使いの口添えに依って<星の鷲>を意味するソロンギルの名で、客将としてローハンのセンゲル王に仕える事となった。
“同盟国の客将としていずれ手中に収める南方王国ゴンドールの情勢を把握せよ”
それがガンダルフの背後で囁くエルフの声である事は容易に知れた。
だが不思議な事に、それを言う西方の賢者の口調にその作為は微塵も感じられない。
その賢者にとって世界とは、驚く程くっきり白と黒に分かれていると知った時、アラゴルンは心底驚愕した。
賢者の中では白き光の世界に属する善なるもの、正しきもの、清きものの内に、悪しきもの、邪なるもの、穢れたるものが在るなどとは、端から認識すらされてもいないのだ。
そして西方から遣わされた賢者である魔法使いにとって、白き光の世界で最高位に座す存在は、当然の如くエルフなのである。
その尊ぶべきエルフの内に、黒き闇があろうなどとは魔法使いに認識されようはずもない。
白きものの中にある黒き闇、黒きものの中にある白き光、その様な混沌は賢者の世界には存在しないのだ。
“灰色の放浪者”はその名に反し、白が黒に、黒が白に変わる狭間にある灰色の時を、その明るい空色の瞳に映すことはないだろう。
ならばその魔法使いは白き光の存在が内なる闇に飲まれる時、その存在が余すところなく黒きものへと変じるまで、それを知る術はないのである。
ある意味でそれは幸福な事だ。
皮肉ではなくアラゴルンはそう思った。
世界がそれ程単純だと信じられるものならば、どこまでも己の信じる世界だけを頼りに生きていけるだろう。
だがアラゴルンにはそれが出来ない。
例えエルフに育てられ様と、例え西方の血を継ぐ身であろうと、アラゴルンの属性はあくまでも“人”である。
人であるアラゴルンにとってエルフの傲慢は彼らの内にある闇である。
しかしそのエルフ等にとって、彼等以外の種族を見下す事も、無知なるものを蔑む事も、力なきものを侮る事も、彼等自身の内なる闇と自覚はされない。
何故なら彼らは自らを、全き光の世界に属する曇りなき白きものだと信じて疑わないからである。
自覚されぬ闇は闇とはならない。
それはエルフ自身にとっても、また賢者にとっても同様である。
されど人とは自らの内なる闇を自覚して生きる種族だ。
完全に白きものも、完全に黒きものも、人という種族の中には存在し得ない。
無意識の内にもその事実を、人という種族は知っている。
善なる者の中にも悪しき闇はあり、正なる者の胸にも邪は宿る。
清く見える者の内にも穢れは付き纏う。
それが人という種族なのである。
人の持つ“内なる白き闇”を見る事の出来ぬエルフや賢者には、人が治めるこの国で生きていく事は出来まい、とアラゴルンは思う。
それ故この中つ国でエルフの時は黄昏を迎え、賢者もいずれは去るだろう。
“ならばなぜ自分はここにいる?”
オークの小隊を討伐する為ソロンギルとしてローハンの騎馬部隊を率いて東谷に向かう途上、アラゴルンはふとその様な虚しい思いに囚われた。
しかし一旦戦闘が始まってしまえばその様な物思いに耽っている余地は勿論、無い。
“死すべき運命”の命に執着する人たる種族にとって戦いとは、一瞬一瞬が常に“生きるか死ぬか”なのである。
そんな中思いの外数に勝るオークの兵を相手に、ソロンギルが率いるローハンの騎馬部隊は手こずった。
予想外の守勢に回るざるを得なくなったその時、響き渡る戦闘角笛の音と共にオーク兵等の背後からゴンドールの援軍が現れた。
その時初めてゴンドールが誇る白き都の近衛部隊を目の当たりにしたソロンギルは、黒い軍馬に跨り黒尽くめの甲冑に身を包んで近衛部隊を率いる堂々たる偉丈夫の、面頬を上げた黒い兜から覗く厳冬の空を思わせる灰色の瞳に目を奪われ、釘付けになった。
それは、それまでソロンギルが一度として目にした事のない、硬質な光を放つ美しい瞳だった。
その黒尽くめの男こそ、ソロンギルよりふた月ばかり先に誕生したゴンドールの公子、執政エクセリオン二世の嫡男、デネソールであった。
デネソールは笑わない男だった。
見てくれだけならば大層に美しい男ではあったのだが、如何せん、全く愛想というものがなかった。
笑いもせず喋りもしない美しい男など近寄りがたいだけなのだが、デネソールはそれを気に掛ける様子もなかった。
評議の場に顔を揃えた廷臣達を仏頂面で睥睨するデネソールに、ソロンギルは胸の内で苦笑した。
ソロンギルが東谷での討伐戦を終えた後、ゴンドールでは執政エクセリオン二世が広く才能を募る為、国内外に人材登用の触れを出した。
それを知ったソロンギルはガンダルフの反対を押し切り客将としてエクセリオンに仕える為、ローハンからゴンドールに籍を移した。
ガンダルフの反対を押し切ってまでソロンギルがゴンドールの客将となった訳はエクセリオンの嫡男デネソールにあった。
東谷での戦闘後、軍馬から降り兜を脱いだデネソールを見てソロンギルは息を飲んだ。
確かにデネソールは大変な美丈夫ではあったのだが、エルフの間で育ったソロンギルには見目好い男など然して珍しい訳ではない。
ソロンギルが驚いたのは嫡男の美貌などではなく、その嫡男から“裏の顔”が全く感ぜられない事だった。
多かれ少なかれ人というのは“裏の顔”を持っている。
人のみに限らずエルフですらそうだ。
然るにデネソールというその嫡男には“裏の顔”というものが全く感ぜられないのである。
西方の血を濃く継ぐ故に胸の内を人に悟らせない、という訳ではない。
寧ろソロンギルなどには拍子抜けする程容易くその胸の内を見通す事が出来た。
出来たのだが、いくら胸の内を探っても、やはりデネソールに“裏の顔”はない。
ソロンギルは驚愕した。
ひどくその男に興味をそそられた.
デネソール自身はちらりとソロンギルを一瞥しただけで全く彼に興味を示さなかったが、デネソールのその態度は却ってソロンギルの興味を引いた。
そんな折、エクセリオンの触れが出た。
ソロンギルは飛び付いた。
その結果がこの状況である。
ソロンギルは苦笑するより外になかった。
とは言えデネソールは人の言葉を聞かぬ男、という訳ではなかった。
寧ろ人の言葉は全て聞いた。
時には人が口にせぬ言葉さえ黙って“聴いた”。
然る後に口を開くデネソールの言葉は重かった。
反論の余地を許さぬ正論だったからだ。
だがその言葉は容赦もなかった。
当然反感を買った。
利権絡みで肥え太った一部の高位高官などは特にそうだ。
しかし当のデネソール自身はそれを気に掛けている風もない。
それがまた余計に重臣等の反感を煽るだけだ、とソロンギルは思うのだが、デネソールはどうもその辺りを意に介さない。
その様なデネソールを熱狂的に支持する者もないではないが、彼等は大方下級氏族か…一部の庶民だ。
名家の重臣達がずらりと顔を揃える政の場で、彼等は戦力足り得ない。
大国の政なぞ関り合いになった事もないソロンギルにさえ、それは自明の理だった。
だがデネソールの心中には、居並ぶ重臣達の勢力図も、姻戚関係から成る派閥の構図も、況や財力に拠る上下関係も、一切考慮されていないのである。
彼の心中にあるものは、唯“理”のみなのだ。
理に適わぬ論を唱える者であれば、それが何者であれ一刀両断で論破する。
大したものだと思う。
大したものだとは思うが遣り方が余りにも直截過ぎる。
外堀を埋める、搦め手から攻める、懐柔策で籠絡する…、デネソールにはその様な遣り方が出来ぬ。
如何に正論だろうと言い方ひとつだ。
大国の政に関わった事がなくともその辺りの駆け引きはソロンギルの方が遥かに心得ている。
それ故将軍として評議の席に着くソロンギルは、デネソールに同調してはいても、結果としては重臣達に却下されたデネソールの案を、彼等の口に合う様料理し直して提示する役回りを演じる事となった。
その事でソロンギルの評価は重臣達の間で高まった。
デネソールとは違い、気さくで庶民的な将軍であるソロンギルには民心も集まった。
庶民的なのは当然だ。
何しろ庶民の扱いさえ受けぬ野伏として北の荒地を流離った身なのだ。
そうなると重臣達は目の上の瘤であるデネソールの対抗馬としてソロンギルを手の内に取り込もうと画策し始めた。
酒席に招く、寝所に娘を送り込む、賂を掴ませる…あの手この手で懐柔策を試みた。
最初こそ面食らったものの、いくらもせぬうちソロンギルはその状況に慣れた。
美酒に酔いしれ、重臣自慢の美姫を頂き、賂を懐に入れた。
くれると言うものを貰っているだけだという程度の気持ちで、特段良心の呵責もない。
後ろ暗い気持ちがない分対応にもそつがない。
そつはないがかといって重臣達に対する親和の情が湧く訳でもない。
寧ろ彼等に対する蔑みと哀れみばかりが肥大した。
その様な王宮での暮らしの中で、徹頭徹尾揺らがぬデネソールが、ソロンギルには不思議でならなかった。
デネソールだけがそうなのか、執政家の人間が皆そうなのか、ソロンギルは日を追うごとにゴンドールに於ける執政家の存在そのものに興味が募った。
その頃になって漸くソロンギルは、北方を発つ際リンドンの領主キーアダンから聞かされた、“蛇の鍵”に纏わるゴンドール最後の王、エアルヌアの残した言葉に秘められた事実を確かめたい、と思い始めたのだった。