top of page

血脈 2

 

翌日、イムラヒルはファラミアを伴って執政家の陵墓を訪れた。

正確には執政家の陵墓ではなく執政家の陵墓の程近くに設えられた小さな塚であったが。

 

ミナス・ティリスには王と執政の為の“死者の家”があったが、それはあくまでも男達の物であり、女達がその廟所に眠る事はなかった。

故に歴代の執政家の妻達や、希に他家に嫁す前に亡くなった姫達はミナス・ティリスの西、ミナス・ティリスとロスサールナッハの間、ミンドルルイン山を背にした平野に築かれた執政家の女達の為だけの陵墓に葬らた。

デネソールの妻であるフィンドゥラスもまた、歴代の執政の妻達と共にそこに眠っていた。

しかし執政家の系統に属さないイヴリニエルが眠るのはその陵墓ではない。

執政家の陵墓を望むその裾野にひっそりと設えられた小さな塚に、嘗て“ドル・アムロスの青の姫”と呼ばれたイヴリニエルが人知れず眠っているのだ。

 

公には出来ぬ墓参でもあり、供回りの者も付けず訪れたその小さな塚は、しかし手入れが行き届き艶やかな緑の葉と薄青の花弁の対比が鮮やかな、清楚で美しい花に囲まれていた。

イムラヒルは“ほう”という表情でその小さな花を見ると

「ルイン=ペルカレン…」

と呟いた。

「緑中の青?」

「ああ、そなたはエルフ語に堪能であったな。

 この花の名だ。

 ドル・アムロスの花だが、大層草花のお好きだったそなたらの母上がミナス・ティリスに嫁ぐ際、ドル・アムロスから幾つかお持ちになった苗の中にこの花もあったのだ。

 ただ、ミナス・ティリスでは気候風土が合わなかったと見えて、お持ちになった苗は皆枯れてしまったとお聞きしたのだが…」

ファラミアは優しい色合いの緑の丸い葉にふわりと包み込まれる様にして咲いた、凛とした薄青の花をじっと見詰めた。

「叔母上は…この花がお好きだったのでしょうか?」

「イヴリニエルは草花という草花はどんな雑草も大切にしたが、この花の事は特に…そう、愛していた様だった」

「叔母上は…どの様なお方だったのでしょう?」

すっかり背が伸びて今では叔父と目線の変わらぬファラミアが、イムラヒルの目を見てそう聞いた。

「そうだな…、一言で言えば…じゃじゃ馬…だな」

「じゃじゃ馬…ですか?」

思いがけない返答にファラミアは思わず問い返した。

「そなたらの母上とは全く気質が似ておらなんだ。

 双子である私とも、な」

イムラヒルは笑った。

「そなたの様な青い瞳に白味がかった金の髪、肌が透ける様に白かった故、黙って立っておれば中つ国一の美女と謳われたそなたらの母上にも劣らぬ美女であったのだが」

イムラヒルは苦笑した。

「とにかく名にし負うじゃじゃ馬でな、裸足で野山を駆け回ってばかりおった」

「裸足で…野山を…ですか?」

初めて聞く叔母の話は驚く事ばかりだった。

「それだけではないぞ」

イムラヒルは悪戯っ子の様な目でファラミアを見ると声を潜めて

「叔母上は男達に混ざって剣を振るおうとまでしたのだ」

とそう言った。

驚きの余り言葉もなく目を見開いたファラミアを見てイムラヒルは快活に笑った。

「流石にその時は父上に散々絞られて暫く大人しかったがな」

「はあ…」

「ファラミア」

イムラヒルは可愛い甥の薄青の目を見て優しい声で言った。

「ボロミアの大角笛の継承式に義兄上がお前に用意した誓剣は、元はイヴリニエルの物なのだよ」

「え?」

眼を瞠るファラミアにイムラヒルが語った。

「そなたらの母上がこっそり職人に頼んで用意し、父上に絞られて萎れていたイヴリニエルに贈った物なのだ」

「母上…が、ですか?」

正直ファラミアは母の事を余り覚えてはいなかったが、それでも叔父の語る母の姿は、僅かにファラミアの記憶にある母の姿とは重ならなかった。

「イヴリニエルは…そなたらの叔母上はそなたらの母上をそれはそれは深く愛しておってな、そなたらの母上もまた、イヴリニエルの事を大層可愛がっておいでだったのだ」

ファラミアの胸がずきりと痛んだ。

「“お父様には内緒よ”と言って私にあの短剣を見せた時のイヴリニエルの嬉しそうな顔が、私には忘れられないのだよ」

そう言ってイムラヒルは遠い目をした。

 

 

イヴリニエルが教練所で剣術の稽古を見るのでさえ眉を顰めていた父・アドラヒルはその日流石に娘を甘やかし過ぎたかと頭を抱えていた。

15を目前にしても一向に年頃の娘らしくならないイヴリニエルに、妻などは日々口喧しく「娘らしくなさい」と目くじらを立てていたが、元来大らかな気質のアドラヒルはその度「まあ、まあ」と執り成していたのだ。

その娘が剣を習いたいと言ってきた時には流石に「馬鹿な事を」と一蹴したのだが、あろう事か娘が、ならば実力行使とばかりに教練所に乗り込み、兵らに混ざって剣を取ろうとした段になり、笑い事ではないと娘に大目玉を食らわせたのだが、一体誰に似たらああも突拍子もない娘になるものやら…と、悩み多き大公は盛大なため息を吐いた。

 

イヴリニエルはすっかり不貞腐れていた。

父に大目玉を食らった事などどうという事はないが、教練所への出入りを禁じられた事は痛かった。

直接手解きなど受けなくとも、教練所で見ていたので剣の扱いは分かっている。

一度師範の動きを見れば覚えてしまうのだ。

しかし本物の剣の重みは手に取ってみなければ分からない。

“超常の力なんてこんな事にしか役に立たないのに”

寝台に腰掛けたイヴリニエルは、爪先に引っ掛けてぶらぶらさせていた靴を、勢いよく足を振り上げて壁まで投げ飛ばすと、寝台の上にゴロリと仰向けに転がった。

 

その時部屋の戸を控え目に叩く音が耳に入り、不機嫌な気分のままぶっきらぼうに「誰?」と問うと「私よ」という、イヴリニエルがこの世で一番美しいと信じて止まない姉の声で返事が返り、イヴリニエルは寝台から飛び起きた。

裸足のまま戸口に駆け寄り大急ぎで扉を開けると、そこには大好きな大好きな美しい姉が細長い包を胸に抱いて、女神の如き微笑みを湛えて立っていた。

「お姉様!どうなさったの、お姉様が伺いも立てずにいらっしゃるなんて。

 お加減は?お体の具合は?」

「まあ、イヴリニエル、そんなに一度に聞かれては答えられないわ」

ころころと鈴を転がす様な声で笑う姉を見て、姉を戸口に立たせたままだった事に気付いたイヴリニエルは、慌てて「兎に角入って」と姉を部屋に招じ入れた。

部屋に入ったフィンドゥイラスは机に包を置いて窓際の椅子に腰掛け、姉の向かいに腰掛けた妹に、にっこりと微笑み掛けた。

「これを貴女に差し上げようと思って」

机の上の包と姉の顔を交互に見て、イヴリニエルが「開けてもいい?」と聞くと、フィンドゥイラスはこっくりと頷いた。

イヴリニエルが包を開くとそこには白銀の鞘も美しい短剣が光っていた。

「お姉様!」

短剣から顔を上げたイヴリニエルはにこにこと幸せそうに微笑む姉の顔を見た途端、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がって姉に駆け寄り、その細い首に抱き着いた。

「ああ、お姉様、お姉様、お姉様!」

「まあ、まあ、イヴリニエルったら」

幼子をあやす様にぽんぽんと背中を軽く叩く姉の優しい手に溢れてくる涙を拭って、イヴリニエルは姉から身を離した。

「お姉様…、どうなさったの、これ…」

泣き笑いの様な表情で聞いてくる妹に、フィンドゥイラスは優しく微笑みかけて言った。

「お母様がね、新しい首飾りをお作りなさいって飾り細工の職人を寄越して下さったのだけれど…、お母様が作って下さったのがもう幾つもあるし、わたくしは…そういう物は余り付けないから…」

僅かに困った様な表情になった姉を見てイヴリニエルは思った。

そうなのだ、お姉様は滅多に宝石類を身に付けない。

お姉様が贅沢を好まないからでもあるが、そもそも宝石など必要ないのだ。

“お姉様自身が何にも勝る宝石そのものなんだから。

 お母様は勘違いなさってるわ“

妹がそんな事を思って、ささやかな憤慨を胸に抱いた事など全く気が付かない姉はおっとりと続けた。

「それでね、その飾り細工の職人にこういう物が出来ないか聞いてみたの」

「それでこれを?」

イヴリニエルは息を飲んでその短剣を穴が開くほどじっと見詰めた。

と、その青玉の瞳にみるみる新しい涙が溜まっていった。

「お姉様…これ…」

「鞘の意匠はわたくしが考えたの…」

少女の様にはにかむ姉の、例えようもなく美しい笑顔に、イヴリニエルの胸が締め付けられた。

「覚えていて下さったのね」

「“私生まれ変わったら”」

「大鷲になりたい」

姉妹は顔を見合わせて、にっこりと笑い合った。

 

イヴリニエルが10ばかりの頃「私生まれ変わったら大鷲になりたい」そう言うと、父母を含め宮中の者達は皆ただ曖昧に笑うばかりで誰もまともに取り合ってくれなかった。

ただこの美しい姉だけが真っ直ぐにイヴリニエルの目を見て「どうして大鷲になりたいの?」と聞いてくれた。

「だって、大鷲になったら自由に何処へでも飛んで行けるでしょう?

 そしたら私お姉さまを背中に乗せて、お姉さまの目の色と同じベルファラスの遠浅の海にも、まだ見た事のないミナス・ティリスに聳え立つと言うエクセリオンの白の塔にだって、連れて行って差し上げられるでしょ?」

イヴリニエルがそう答えると、姉はその美しい碧の瞳を綺麗に丸く見開いて

「イヴリニエル…、まあ…イヴリニエル…」

と声を詰まらせ、それはそれは優しく、ふわりとイヴリニエルを抱き締めてくれた。

「ありがとう、イヴリニエル。

 嬉しいわ、とても」

暫く妹を優しく抱き締めていたフィンドゥイラスは妹から身を離すと、その綺麗な瞳に涙を浮かべて妹の瞳を覗き込んで微笑んだ。

「貴女が大鷲になったら、ぜひ連れて行ってね、ベルファラスの遠浅の海にも、エクセリオンの白き塔にも」

「お姉様…」

イヴリニエルは涙を溜めた姉の、森の木立を映した様なキラキラと光る美しい瞳をうっとりと見詰めた。

“なんて綺麗な碧なんだろう。

 お姉様の瞳は、お母様がお持ちになるどんな緑玉より、澄んだ美しい翡翠の宝玉だわ“

「イヴリニエル?」

「私、お姉様をお守りするわ」

フィンドゥイラスは、見た者が10日は幸福に過ごせると言われる花の綻ぶ様な笑みをバラ色の頬に浮かべた。

“お姉様をお守りするわ。

 この美しい瞳が陰らない様に、曇らない様に。

 ずっと、私が“

その時から、イヴリニエルの心の一番深い所に、フィンドゥイラスへの想いが大切に大切に仕舞われた。

bottom of page