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宿業 15

数年ぶりで訪れた古き書庫には、時が止まったかのような人の気配が感じられぬひんやりとした空気が漂っていた。

だがその中でファラミアが記憶を辿って足を運んだ一角だけは周りのその空気とは一線を画し、埃を払われた机の上に角灯や獣脂蝋燭が置かれており、更には几帳面に整理された伝承の文献類が積み上げられていた。

その光景にファラミアは背筋が凍り付くのを感じ、思った。

“ご存知なのだ、父上は”

父は既に文献を紐解き確信を得ているのだ、と積み上げられた文献は物語っていた。

父を出し抜くファラミアの思惑は、その瞬間雲散霧消した。

父に対して優位に立つはずの足場は脆くも崩れ去ったのだ。

突き付けられたその現実に、ファラミアはぐらりと風景が傾ぐのを感じ、机の上に手を突いた。

“ご存知ならば、なぜ父上は公にされぬのだ?”

文献を睨み据えながらファラミアは思った。

“アングマールの魔王が復活した、と”

目の前に積み上げられた文献の中にその答えがある。

“成すべき事の答えを得よ”

鍵鑰主管長から告げられた父の言葉がファラミアの胸を鋭く突き刺した。

目を上げて背筋を伸ばしたファラミアは、積み上げられた文献のひとつを手に取った。

 

都が暮色に染まる頃、漸く書庫を後にしたファラミアは、第7階層へと続く街路を唯黙然と、爪先だけを見詰めて歩を進めていた。

書庫に用意されていた文献を紐解き野伏達の報告と照らし合わせた結果、ファラミアは魔王の復活を確信した。

しかしファラミアにとってより問題だったのは、父が既にその事実を把握していたと言う事の方であった。

知った上で父は、魔王の復活を公にし、国の防備を固めようとはせぬのである。

ではその父が何をファラミアに“成すべき事”として課したのか?

それを思うとファラミアは、どうにも気持ちが暗く沈まざるを得なかった。

 

今ファラミアの配下となっている野伏達は、本来北方王家の末を彼等自身の族長として持つ流浪の民である。

野伏達はその族長を旗頭として亡国の元凶であるアングマールの魔王を打倒し、父祖の仇を討つ事に祖国復興の夢を託しているのだ。

野伏達にとってアングマールの魔王とは警戒すべき対象であるだけでなく、彼等自身の手で討ち果たさねばならぬ仇敵なのである。

対するゴンドールの民にとって魔王とは彼等の王に依って既に打倒された“過去の敵”だ。

無論ゴンドールの民全てがその様に認識している訳ではない。

殊に軍部では国防上の視点から、長らく魔王はミナス・モルグルに身を潜めているものとされてきた。

しかしそれとて今では過去の話しとなりつつある。

軍議の場でさえ魔王の名が聞かれなくなって既に久しい。

そしてそれは国民感情に照らせば当然と言えた。

ゴンドールの国人は還らざる王を玉座に待つ民である。

そして玉座虚しき所以は魔王を討ち果たすべく王が祖国を後にした事に由るのだ。

ゴンドールの民にとっては、祖国の名にし負う王が魔王を討ち果たさぬままその行方を断ったのだ、とは思いたくないのが国民感情というものである。

そして事実魔王は、王が消息を絶ったと共に姿を消したまま今に至っているのだ。

魔王は打倒されたもの、とゴンドールの民が考えるのは無理からぬ事である。

その様な状況下で魔王が実は討ち果たされてはおらず既に復活しているのだと公にすれば、還らざる王の名誉は失われ、王への誇りを拠り所に東からの脅威に耐える民の士気は大きく損なわれるだろう。

況や万が一にもその懸念が野伏達の口から流出し、針小棒大な流言飛語となってゴンドール国内に拡散しようもなら、民の間に恐慌を招きかねない危険を孕んでいる。

理屈ではなく、それがゴンドールの国人として身に沁みついていて然るべき“肌感覚”というものである。

そしてそれは、ヘンネス・アンヌーンに於いて北方出身の野伏達と行動を共にし、灰色の魔法使いに師事する事で中つ国全土を俯瞰的に見る目を養ってきたファラミアが大きく欠いたものだった。

“父上は改めてそれを私に知らしめようとされたのだ”

突き付けられたその事実は、ファラミアの足取りを重くさせずにはおかなかったのだ。

無論ファラミアとて祖国を愛してはいるが、中つ国全土で最も祖国ゴンドールを愛しているのはボロミアを除けば間違いなく父であり、その愛情の深さはファラミアの及ぶところではない。

だからこそ父は、ファラミアも及ばぬ伝承の知見と中つ国全土に亘る広い視野を得ても尚、まず第一に祖国の民を護る視点に立って思考するのだ。

殊に近年その傾向が強い父の言動は、翻って他国から見るならば、それは非情とさえも言えるものだ。

野伏達の悲願である北方王国の復興など、父にとっては歯牙にも掛けるものではない。

それ故父がファラミアに“為すべき事”として課したのは、魔王復活の疑惑が万一にもゴンドールの民に伝播せぬよう、噂の根源を断つべく野伏達の懸念を払拭し、魔王打倒に祖国復興の夢を託す彼等の希望を打ち砕け、といういう事なのである。

ファラミアは足を止め、深い溜息を吐いた。

それが父の意図である事が、ファラミアには手に取る様によく分かったからだ。

西方の血、というだけでなく、それ程濃く父の血を、ファラミアは継いでいるのである。

ファラミアは今一度深い溜息を吐くと、再び重い足を引き摺る様にして歩き始めた。

 

“目の色と髪の色を除けば、ファラミア様は御母上似でいらっしゃる”

しばしばファラミアがその様に言われるのは

“目の色と髪の色以外、ボロミア様は実によく御父上に似ておられる”

ボロミアがしばしばその様に言われるのと同様皮肉な事だった。

ファラミアにとっての母とは記憶も定かではない存在だが、残された肖像などを見れば画布の中で微笑む母の穏やかで温かな面差しは、決してファラミアには持ち得ぬものである。

それはボロミア以外のものでは有り得ない。

一見柔和と見られるファラミアの目鼻立ちが母に似ていると言われる様に、一見厳めしくさえ見えるボロミアの美貌が父に似ていると言われるのは、あくまでも外見の印象に過ぎない。

 “さればこそ、あれ程深く母上を愛された父上の血を濃く継ぐ私が、母上の血を濃く継ぐボロミアを…”

ファラミアがそこで思考を切り爪先から目を上げたのは、いつの間にか第7階層の執政館にまで足を運んでいた彼を、館の門前でデネソールの侍従が待ち受けていたからである。

“明日の午後官邸の執務室に参れ”

父のその言伝を告げ立ち去った侍従の後姿を見送ったファラミアは、暫し思案した後踵を返し、廷臣官舎へと向かったのだった。

 

廷臣官舎に鍵鑰主管長を訪ねたファラミアが古き書庫の鍵を差し出した時、実直なその男は

「お呼び頂ければこちらから伺いましたのに…」

と酷く恐縮した。

「気にせずともよい。

 そなたが父上の無理を聞いてくれて助かった故、礼が言いたかったのだ。」

ファラミアはそう笑ったが、その言葉に感激した面持ちで目を瞬かせる鍵鑰主管長の姿には、胸の奥がちくりと痛むのを感ぜずにはいられなかった。

それは父が決して用いる事のない、そしてファラミアにとっても禁じ手と言える人心掌握術だった。

主管長の実直さに付け入る姑息な策である自覚はあったが、今のファラミアには手段を選んでいる余裕はなかった。

都の公文書に載る倉という倉、門という門の鍵を預かる主管長を籠絡する事の意味はそれ程大きい。

「父上はあのような御方ゆえ気苦労も多かろう。

 難儀している事があればいつでも話を聞こう程に、遠慮は無用だ」

そう微笑んだファラミアの狙いに違わず、主管長は躊躇いがちに口を開いたのだった。

 

白の塔に下弦の月が掛かる頃、ファラミアは執政館の自室で机の上に広げた羊皮紙に向かい、険しい目でその白い表面を見詰めていた。

 

鍵鑰主管長のフーリンが困惑気味に語った父の行動は、ファラミアでさえ真意を測りかねるものだった。

貴族達に私兵を解散させて徴収した公金を、密かに備蓄用の糧食を買い付ける事に父は充てたのだ、とフーリンは言った。

少量ずつ分割して買い付けられた糧食は人々が寝静まった夜半過ぎに都内へと運び込まれ、搬入に立ち会ったフーリンは、それを他言せぬよう厳命を受けたのだと言う。

都の重臣達にさえ空蔵だと伝えられている食糧庫に、今では密かに買い付けられた糧食が詰め込まれているのだというその事実は、実直なその主管長が一人で背負うには荷が重かったのだろう。

「ロスサールナッハに向かわれるボロミア様に鍵をお渡しするよう申し付かり、これで漸く肩の荷が下りると安堵したのですが…」

フーリンはそう溜息を吐いたのだった。

 

前夜。

大侯の侍従からボロミアに鍵を渡すよう告げられたフーリンは首を捻った。

「ボロミア様はローハンにいらっしゃっているのでは…?」

つい、そう問うたフーリンに対し

「明朝お戻りになられる。

 だがその足ですぐさまロスサールナッハに向かわれる事になろう程に、大門でお待ち申し上げ、内密に鍵をお渡しするよう大侯閣下からのお達しである」

侍従はそう答えたが、それは却ってフーリンを戸惑わせた。

ローハンまでの往復であれば通常どれ程急いでも半月は要するのだが、ボロミアがローハンへと出立してからまだ10日と経っていないのだ。

況してや今回ボロミアは同盟強化の協議を目的にローハンに向かったのである。

明日というのは如何にも帰着が早過ぎる。

更に加えて、帰着早々のボロミアを休む間も与えずロスサールナッハに派遣する、という大侯の意向も不可解だった。

フーリンの知る限り現下のロスサールナッハに、執政家の後継がその様な強行軍をせねばならぬ程火急の用件はないはずなのだ。

その時侍従は、フーリンの困惑を読み取ったかのように語を継いだ。

「此度このミナス・ティリスにロスサールナッハより駐在の大使を置く事となった故、ボロミア様は彼の地で執り行われる大使任命式に閣下の名代として、大使の証である鍵を貸与するお役目を仰せつかるのだ」

「駐在の大使…ですか?」

思わずフーリンが問い返したのも無理はなかった。

嘗て1度として、ミナス・ティリスに領国の大使を置くなどなかった事だからだ。

 

そして今日。

果たして鍵を渡した時ボロミアは

「都に領国の大使を駐在させるなど初めての事だが、父上からも詳しいお話を伺えなかったゆえ勝手が分からぬ。

これはどこの鍵なのだ?」

とフーリンに問うた。

 

「どの様に申し上げればよいものやら、返答に窮しました」

フーリンはそう視線を落とし、深い溜息を吐いたのだった。

 

ファラミアはフーリンのその表情を思い返しながら、肚の底に蟠る重い疑惑の念を感じていた。

フーリンだけではない。

誰よりもその意に通じるはずの自分にさえ、父のその行動は不可解だった。

確かに敵の影が日毎濃くなっているのは事実だが、命を賭して国を護る近衛達の盾は厚く、彼等の背後にある領国の暮らしは守られている。

都の食糧庫にも糧食は充分に蓄えられており、新たに食料の備蓄をせねばならぬ程、民の生活は窮乏してはいないのである。

  1. 単に食料の備蓄を増量するだけの事であれば、何も内密にする必要はないのだ。

“理が勝ち過ぎて情に欠ける”

兎角そう評されがちな父が、故なく行動する事はあり得ない。

その父が内密にするからには内密にするだけの訳だ無ければならないのである。

そして父が現状民に伏して語らぬ事と言えば魔王の復活をおいて他にない。

父はいずれ復活した魔王がこのミナス・ティリスに進軍して来るであろうと見越し、籠城戦に備え密かに糧食を蓄えてでもいるのだろうか、ともファラミアは考えたが、すぐさまその考えを打ち消した。

それはあまりにも父らしからぬ仕儀であるからだ。

援軍を恃んでこその籠城策など、あの誇り高い父が敢えて簡抜するものではない。

そもそもゴンドールの援軍となれば同盟国のローハンであろうが、父とローハンの王、セオデンとの関係は二人の息子達のそれとは比ぶべくもなく疎遠なのだ。

両国の同盟を支えているのはファラミアの好むと好まざるとに拘らず、兄ボロミアとローハンの世継ぎセオドレドとの強固な絆にのみ由る事は認めざるを得ないが、そのボロミアもセオドレドも、現政権の決定権者ではない。

あくまでも現下の国政に対する決定権を握っているのは父であり、ローハンのセオデン王なのである。

そしてその両者の間には絶望的なまでに交流がない。

ファラミアの記憶にある限り、父がセオデン王と直に顔を合わせたのはボロミアの大角笛継承式が最後であるはずだった。

それはつまり、父がセオデンの王としての器を見切ったという事なのだ。

そう思うとファラミアは覚えず小さな溜息を零した。

斯様な人物に、父が籠城の援軍を恃もうなどとは、ファラミアには到底有り得ようとは思われなかった。

万一敵に都を攻囲され、退路を断たれる程の事態に陥ろうと、父の事なればセオデン王の援軍を恃むに如かず、都と運命を共にするであろう。

そう考えたファラミアはそこではっと思い至った。

ファラミアの知る父・デネソールとは、正にその様な人物なのだ。

されば。

“父上は王都陥落を見据えておられる”

そう考えれば、父の行動は全て合点がいくものであった。

 

糧食を備蓄したのは、敵の進軍と同時にミナス・ティリスから避難させる民の為だったのだ。

 

ボロミアに劣らず祖国と民を愛する父の事だ。

自らは陥落する都と運命を共にしようとも、民をも共にとは思うまい。

都から民を避難させる最大限の安全策を講じるだろう。

そしてその避難先は、恐らくロスサールナッハだ。

ミナス・ティリスの近在で最も父に対して忠義に篤い領主に依って治められているのがロスサールナッハであある。

ミナス・ティリスに常駐の大使を置く点について、父と彼の間に何らかの密約があったとて不思議ではない。

内密に事を進めているのは敵に自陣の動きを悟らせない為だろう。

民の避難は敵が動き出すと同時に素早く始めなければならない。

早過ぎれば敵に避難の先が知られ先手を打たれる恐れがあり、遅過ぎれば敵の攻撃から逃れ切れない。

早過ぎても遅過ぎても民の安全が危うくなるのだ。

それ故の大使常駐である。

危急存亡の時に際、全権委任の大使が一存で迅速に行動できる事が民を安全に避難させる為に最も肝要だからだ。

ゴンドール執政家の後継であるボロミアを大使の任命式に派遣したのは事の重要性を改めて領主に知らしめる意図があっての事だとも読める。

 

父の行動は、全て“王都陥落を見据えて”という点で符合し、収斂されているのだ。

 

しかしだからこそ、ファラミアは背筋を這う様な冷気を感ぜずにはいられない。

父が祖国の滅亡を“視て”いるのは確かだが、では父はどの様にしてその“未来を視た”のか?

西方の血に由る力、とはファラミアは思わなかった。

時に未来を見通すとも言われるその“視る力”は、口で言いう程容易く行使出来るものではない。

自らと深い関りを持つ者の先行きを僅かに垣間見る為でさえ、尋常ならざる精神力と体力を要する事は、ボロミアの身を案じてその力を行使しようと幾度も試みたファラミア自身が身に染みて思い知っている。

さればこそ、如何に父が濃く西方の血を継いでいようと、“見る力”に依って、唯茫洋と国の行く末を見通す事など出来ようはずもない。

だが父は、祖国滅亡を見据えた上で綿密な策を講じている。

そこには魔王の復活を知ったというだけでは説明のつかぬ何か得体の知れぬ暗い影が潜んでいる様に、ファラミアには感じられてならなかった。

特にこの数年、父は白の塔に籠りがちとなり、都の外へはおろか、第7階層から降りる事さえ稀になっているのだという。

その父がどの様に魔王の復活を知り、国の行く末を“視た”というのだろうか。

“何か及びもつかぬ巨大な闇が、この白き都を呑み込もうとしている”

ファラミアは覚えず指先が白くなる程にきつく拳を握り締めていた。

“今この時、ボロミアの側近くを離れている訳にはいかない”

父の思惑がどうであれ、何としてでも正規軍に復帰し、この都に戻らねばならないという激しい焦燥に、ファラミアは襲われた。

 

決然とした表情で羽根ペンを手に取ったファラミアは、正規軍復帰を申請する為、白い羊皮紙の上にペン先を置いたのだった。

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