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三点の力学(後編) 3

 

出立の準備を終えたマーク第3軍の兵達は、城門の前で隊列を整え、王命が下るのを待っていた。

東マーク警備の任は前日内示が出されており、朝餉の卓を片付ける厨房の竈が冷えぬうちから始められたメドゥセルドでの評議は形式的なものに過ぎない。

早々に王の裁可が下り出立の命が下される事は既に決定事項であり、第3軍の兵達は朝餉の後、前日荷造りを済ませておいた荷駄を手際よく運び出し、城門前に待機したのだった。

だが王命を告げる使者が姿を見せぬまま日が高くなるにつれ、兵達は互いに不審な面持ちを見交わし始めた。

その兵達の中にあってエオメルは、一人他の兵達とは種類の違う不安が身の内を掠めるのを感じていた。

 

前夜エオメルが、メドゥセルドの玉座を護る近衛第1軍から東マーク警備の任に就く第3軍へと転属となる旨を妹に告げた時、4才歳下の妹・エオウィンは「私も兄上と共に東マークに参ります」と、何程宥めても聞かなかった。

そうは言われてもこれはエオメルの一存でどうこう出来る問題ではなく、いくら言われてもエオウィンを第3軍と共に東マークへと伴って行く事などは出来ようはずもない。

「亡き父上、母上の思い出が残る東谷の館を恋しく思うお前の気持ちは分かるが…」

そう言いかけたエオメルの言葉に、エオウィンは激しく頭を振って言った。

「東谷の館が恋しい訳ではありません。

 私は…、兄上がいらっしゃらないこの黄金館に一人残されるのが嫌なのです」

「エオウィン…」

“恋しいのは父上や母上の思い出なんかじゃないわ。

 私が恋しいのは…“

エオウィンはきゅっと唇を噛み締め、胸の内で呟いた言葉の続きを飲み込んだ。

勝気な妹の俯いた瞳にみるみる涙が溜まっていくのを見てエオメルは焦った。

「エオウィン?!

 な、何も泣かずとも…。

 これが永の別れという訳でもない。

 それに何れお前が嫁に」

エオメルが言いかけた瞬間、きっと顔を上げたエオウィンは

「私は嫁になど行きません!」

きっぱりとそう言い切った。

 

その後は取り付く島もなくすごすごと妹の部屋を後にしたエオメルだが、結局朝餉の席にも姿を見せなかったエオウィンを案じ、出立の準備の為メドゥセルドを出る間際、評議の場に向かう妹が大いに信を寄せる年上の従兄を捕まえ、妹の事を頼み置いたのである。

それでも昨夜見た妹の涙を溜めた瞳を思うと俄かに胸が痛み、エオメルは城門からは見えるはずのない遠い妹の部屋がある辺りを見上げ、僅かに表情を曇らせた。

 

部屋の窓から遠く城門の辺りを見詰めながら、エオウィンは激しい後悔に襲われていた。

昨夜兄の

“お前が何れ嫁に”

という言葉を耳にした瞬間エオウィンは頭に血が上った。

“兄上の馬鹿っ!”

そういう思いが収まらず、朝餉の席にも顔を出さずこうして部屋に引き籠っていたのだが、窓から見える第3軍の、針の先で突いた点の様に小さな団の姿を眺めるうち、このまま兄と分かれてしまえば、当分は容易に兄とは会えなくなるのだという実感がひしひしと胸に迫った。

 

 

エオウィンにとって兄・エオメルは、物心付いた頃から誰よりも近しく、常に傍らにある存在であった。

 

両親の夫婦仲が特に悪かったという訳ではないが、かと言って特に仲睦まじかったという記憶も、エオウィンには、ない。

幼い頃には分からなかったが、自らの縁談話さえ出る齡となって思い返せば、父・エオムンドにとって母・セオドウィンは、あくまでも主君の妹姫であり、母にとっても父は、東谷の領主とは言っても兄王の臣下である事に変わりなく、その感覚は互いに拭い去れないものであったのかもしれない、と感じていた。

特に父は、妻である母と過ごす時間に多少の気詰まりを感じていたのかもしれない。

生粋のロヒアリムである父は大の馬好きという事もあったのであろうが、狩猟や遠乗り、所領地であるローハン東境の哨戒警備と、館を留守にする事が多く、エオウィンは今でも父の顔をあまりはっきりと思い出す事が出来ない。

対する母は、ローハンいちの美女と言われた人であっただけに美しい人であったという記憶は確かにあるのだが、王家の姫の常として、自ら子育てに手を掛ける様な事はなく、幼い兄妹の世話をしたのは専ら乳母や女官達であった為か、母の美しさはエオウィンにとってどこか遠くよそよそしい印象しかない。

しかし両親のその様な印象にも関わらず、幼い頃のエオウィンの思い出は決して淋しいものではない。

それはそこにいつも兄の笑顔があったからである。

“姫だから”という理由だけで、兄の様に自由に館の外に出る事も馬に乗る事も許されなかったエオウィンをこっそり館の外に連れ出し、馬の乗り方を教えてくれたのは兄だった。

椎の実を採りに行ったフィリアンの森で木登りを教えてくれたのも兄だった。

その時登った椎の木から落ちて足を挫いたエオウィンを館までおぶってくれたのも兄であり、しこたま大目玉を食らったのにも懲りず「スグリの実が生ったら次はスグリを摘みに行こう」と笑ったのも兄なのだ。

“娘だから”“姫君だから”と館の中に閉じ込められる事に幼いながらも息苦しさを感じていたエオウィンにとって、エオメルの存在は小さな世界の自由の中心であり、心の拠り所の全てであったのだ。

 

 

“今もそれは変わらないわ”

窓の外に第3軍の出立を告げる使者の姿が現れたのを認めた時、エオウィンの胸には戦に出た兄の帰りを待つ間の、一日千秋の思いが蘇り矢も盾もたまらなくなった。

窓辺から踵を返し、部屋の戸口に走ったエオウィンが扉の把手に手を掛けようとしたその時

「いるかぁ、エオウィン?」

という、その場に全くそぐわぬ能天気な声と共に、部屋の戸が外から開かれた。

 

「セオドレド様…」

戸口に立つローハンの世継ぎは、その一見嫋かな麗人ぶりとは裏腹に、凡そ常識というものが通じぬ奇行で父王を悩ませる無頼漢である。

伺いも立てず妙齢の姫君であるエオウィンの部屋にずかずか入り込む事などもしょっちゅうなのだが、エオウィンにはそれは決して不快な事ではなかった。

一つには、この大層見てくれに恵まれた従兄が、外見上だけであれば全く男子然として見えない事にあり、そしてそれ以上に大きな要因は、この世継ぎの君が、全く婦女子に食指を動かされぬ嗜好の持ち主であるというところにあった。

前年15となったエオウィンは、王家の血筋に連なる子女の慣習に従い、婚姻の意義や初夜の作法を女官の長から習い聞いていた。

家の名をその身に負う者にとって、婚姻とは愛だの恋だのという個人の感情に帰属するものではない。

だが習い聞くまでもなく、両親の姿を見て育ったエオウィンにとって、それは充分過ぎる程に承知している事だった。

“真実の愛を貫いた騎士”だの“一途な想いを遂げた姫”だの、そんなものは村の婆が幼い子供に聞かせる昔語りの中にしかないのだと、エオウィンにはよく分かっていた。

少なくとも家名を背に負う者にとって、個人の感情に起因する恋慕の情を全うする事など夢物語でしかないのである。

“特に私は…”

そう、決して口には出せぬ想念が重く胸を覆う時、何に屈する事もない従兄の、明け透けで率直な曇りのなさがエオウィンには眩しかった。

自らに正直である事が困難な時代の中にあって、公言するが憚られる趣味嗜好を一切隠し立てする事なく、さりとて声高に主張するでもなく、飄々と自然体でいられる者などそうそうありはしない。

その意味でセオドレドは稀有な人物だった。

誰の前であれ平然と

「私はボロミアに惚れているのでな」

とそう笑う従兄を見る度、エオウィンは強い羨望の念を抱かずにはいられない。

“私もセオドレド様の様に想いをそのまま口に出来たなら…”

エオウィンのその想いを知ってか知らずか、時にセオドレドはふらりと何の前触れもなく年若い従妹の部屋を訪ね、エオウィンの不安や懸念の幾ばくかを消し去る様な言葉を掛けて去って行く事が何度もあった。

それ故セオドレドの気紛れな居室への訪いはエオウィンにとっては決して厭わしものではなかったのだが、エオメルがメドゥセルドを発とうとする今この時ばかりは、戸口に立つ年上の従兄に少なからざる苛立ちを、エオウィンは感じずない訳にはいかなかった。

 

「セオドレド様、私…」

言いかけたエオウィンの声を打ち消す様に、その時第3軍の出立を告げる角笛の音が鳴り響き、はっと窓外を振り向いたエオウィンの背に、追い打ちを掛ける様なセオドレドの声が重なった。

「今から行ったところで間に合わん。

 無用な混乱を招くだけだ」

唇を噛み、セオドレドに厳しい目を向けたエオウィンは

「それよりそなたに頼みがある」

そう後ろ手に部屋の戸を閉めて言う従兄の、ついぞ見た事のない真剣な色を湛えた眼差しの強さに気圧され、喉元まで出かかった、返すべき言葉を失った。

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