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名にし負う、王と呼ばるる3 –王都(中編)-

 

南方に向かう連絡船に乗る為アラゴルンが身分を明かしてリンドンに入国した時、出迎えた領主のキーアダンは、恰も遠来の旧友を見る様に彼を見た。

 

“鍵の由来は船造りの王に聞け”

父はそう言い残して亡くなったと言う。

だがその言葉の意味は分からない、と母は言った。

夫と意を通じる程、父母が夫婦として過ごした時は長くはなかったのだ。

思えば哀れな母である。

子を成す為だけの婚姻。

一族の為、恐らくは恋も知らず年の離れた男の妻となり、予見に違わぬ息子は生まれたが、それから僅か2年でその夫も失ったのだ。

夫のその死から幾らも経たずして、夫の一族と実家の一族が息子の養育権を巡って争った。

両家の間で板挟みになった、まだ少女ともいえる母を、その時誰が気に掛けただろう。

手を差し伸べたエルロンドに縋った母を責める事は出来ない。

そして。

そのエルロンドからさえ裏切られたのだ。

アラゴルンに“蛇の鍵”を渡す際、血走った眼をして母は小さく呟いた。

「私にだって…」と。

夫から託された秘伝の鍵を、誰にも告げず我が子に引き継ぐ。

母にとってはそれだけが、望みなき人生に残った唯一つの望みだったのかも知れない。

 

その時。

「何かお聞きになりたい事がおありになるのでは?」

と、アラゴルンの胸中を見透かす様にキーアダンが言った。

中つ国で唯一ガラドリエルと肩を並べる程の最長老エルフであるキーアダンは、しかし“エルフの故郷”と呼ばれるヴァリノールで誕生したノルドール族のエルフであるガラドリエルとは違い、生まれ育った中つ国を離れる事無く、ヴァリノールに亘る道を選ばなかったテレリ族のシンダールエルフである。

その為かキーアダンの佇まいは、ガラドリエルの圧倒的な眩いばかりの存在感とは異なる、控え目とさえ言える物静かなものだった。

とは言え相手はエルフである。

アラゴルンは内心の警戒を緩めぬまま注意深くキーアダンの前に“蛇の鍵”を差し出した。

「この鍵の…由来をお聞きしに、参りました」

暫し鍵を見詰めた後、キーアダンは

「承知しました」

と静かに答え、語り始めた。

 

 

キーアダンが語った鍵の由来はアルノール陥落の頃に遡る。

アルノールの王都フォルノスト陥落に際し、難を逃れた北方王国の民はキーアダンによりリンドンで保護されていた。

南方王国ゴンドールの太子エアルヌアが援軍を乗せた艦隊を率いて入港した時、リンドンは祖国を失った北の民で溢れ返っており、港に降り立ったエアルヌアは彼等の姿を目にし、自ら率いた援軍が王都陥落に間に合わなかった事を酷く悔やんだと言う。

エアルヌア自身度重なる海難に見舞われた航海の為、濃い疲労の色を滲ませていたが、それにも関わらず北方の民から祖国を奪ったアングマールの魔王に対する義憤に駆られた太子は、休む間もなく直ちに魔王を討つべく占拠された王都への進軍を開始した。

勇猛果敢な若き指揮官エアルヌアに率いられた西軍の進撃に拠り、敗走する魔王を討ち取る事こそ叶わなかったものの、王都を占拠した敵軍は壊滅し、アルノールは解放されたのだった。

リンドンに凱旋したその西軍の前で跪き、指揮官であるエアルヌアに謝意を表したのは、当時まだ初陣を迎える年にも至らぬ北方王家の太子アラナルスであった。

父王は陥落するフォルノストから撤退する際負った傷が癒えず床に伏しており、名代を務めた彼は、滅亡する祖国を捨て逃亡した挙句、海中に没した祖父アルヴェドゥイを恥じて唇を噛んだのだが、エアルヌアは

「貴殿が恥じる事はない」

と自ら太子の前に膝を折り彼に視線を合わせると、その細い肩に手を置き笑って言った。

「逃亡したのは貴殿ではない。

 貴殿は苦難から逃げてはおらぬ。

 それで好いではないか」と。

 

 

「今に伝わるエアルヌア王の人となりは」

とキーアダンは言った。

「剛勇のみの人物と評されているやにお聞きしますが、私がこの目で拝見しました王はその評伝とは聊か印象が異なる様にお見受け致しました」

キーアダンのその言葉にアラゴルンは困惑した。

聞きたかったのは鍵の由来である。

北方王国滅亡の経緯や書物の中だけで知る上古の代の英雄譚ではない。

キーアダンはアラゴルンのその様子を目に留め、僅かに口元を緩めた。

「その鍵はエアルヌア王がアラナルス殿に渡されたものなのです。

ゴンドールへ還る船が出るまでのひと月程の間、王とアラナルス殿は多くの時を共に過ごし親交を深められたのです」

 

 

エアルヌアがいよいよゴンドールへ発つというその日、アラナルスは目を潤ませ唇を噛んだ。

「今は国無く…流浪の民を束ねる族長の子にしかすぎぬ身の私では、胸を張って太子様をお見送り出来ぬ事が口惜しくてなりませぬ…」

そう声を詰まらせたアラナルスに、エアルヌアは言ったのだった。

「“城無かりしも王ありて民思わば国そこに在り”と申す。

望みを捨ててはならぬぞ、アラナルス殿」

 

 

「“貴殿に一つの望みを進ぜよう”そうエアルヌア王は仰せられ、アラナルス殿にその鍵を手渡されたのです」

キーアダンは微笑んで言った。

 

 

「これは我が祖国ゴンドールの王位を継ぐ者にのみ伝えられてきた鍵だ。

 “いずれ我が意に通ず王

  北の地に現れ出でし時

  我、南方より道を示さん“

 鍵と共にこの言葉を胸に秘し、決して忘れられるな、アラナルス殿。

 意ありてこそ望みは叶う。

 心強く持たれるのだぞ」

そう言ってアラナルスの肩に置いた手にエアルヌアはしっかりと力を込めた。

「エアルヌア殿…」

憧れを込めた瞳でアラナルスはエアルヌアを見上げて頷いた。

「お言葉胸に刻み、決して忘れは致しません」

 

 

じっと話に聞き入っていたアラゴルンに、真っ直ぐ視線を据えたままキーアダンは言った。

「南方へ発たれる前夜エアルヌア王は私の許を訪ねられ、その鍵をアラナルス殿に託されるおつもりだと仰せられたのです」

 

 

「しかしその鍵は…」

そう言い掛けるキーアダンを制し、エアルヌアは言った。

「此度の遠征に際し、予はその鍵と同じ物をひとつ作らせた。

 そして我が形代として予の還りを待つ我が半身に残し来た。

 しかし明日、予は還る。

 我が半身の許へ。

 予が望むは我が半身が持つその鍵のみ。

 故にこの鍵はこの鍵を持つべき者の手にこそ残されんものと予は判ずる」

「その者がアラナルス殿である…と?」

そう問うキーアダンにエアルヌアは不思議な笑みを浮かべて答えた。

「キーアダン殿、我等人たる種族は貴公等エルフとは違う。

 例え西方の血を継ぐ身であろうとも、死すべき運命から逃れられぬが人たる種族だ。

 それ故我等人という種族は自らの生ある内に必ずしも望みが叶えられるとは限らぬ。

 だが望みを捨てさえ致さねば、次の代、次の次の代、それでも叶えられねば更に遥かな先の末なる者に、その望みを託す事は適うだろう」

「エアルヌア殿…」

目を瞠るキーアダンの手を取り、エアルヌアは彼に真摯な目を向けた。

「キーアダン殿、貴公に頼みたき義がある。

 何れの後かアラナルス殿の血を継ぐ者、南方へ渡らせんと求め貴公の許を訪ねたる時来たりなば、その者にこの言葉を伝えられたい。

 “王の声求めたる者、白き都の智の庭に我を訪ねよ

  王の声、隠されし門の内に在り

  門を護る蛇、訪ね来る者に問う

  汝、三度<みたび>問いに答え身の証立つる首を振るべし

  まず一度、更に一度

  末には永遠なる環の如く

  されば秘めたる門開けたりて

  王の声、汝の問いに答えけりぬ“」

エアルヌアの真っ直ぐな視線を受け止め、キーアダンは唯無言で頷いた。

 

 

「今にして思えば、王はその血に備わる西方の力を以てこの日を“視て”おいでになったのやも知れません」

アラゴルンに向かい、キーアダンはそう言った。

そう言うキーアダンを暫し見遣った後、アラゴルンは視線を落として呟いた。

「光の奥方はそれを知って…」

キーアダンはその声を聞き咎め怪訝そうに眉根を寄せた。

「光の奥方…ガラドリエル殿が何をご存知だと?」

顔を上げたアラゴルンは当惑した表情でキーアダンに問うた。

「キーアダン殿は…光の奥方にその事を話してはおられぬのですか?」

「なぜ私がその事をガラドリエル殿に話さねばならぬのですか?」

問いに問いを返しながらもキーアダンは穏やかに微笑んだ。

「お忘れですか、アラゴルン殿。

 私はテレリのシンダールエルフなのですよ?」

その言葉にアラゴルンは“はっ”と表情を引き締めた。

「ノルドールの上級王、フェアノールがロスガールで我等がテレリの至宝、白い船を焼いた時、私はここに在り船を焼く紅蓮の炎が天を衝くのをこの目で見、王が我が同胞を斬り殺し洪笑する声をこの耳で聞いたのです」

キーアダンは決して声を荒げた訳ではなかった。

だがアラゴルンはその声の中に、ガラドリエルと同じ深い悲しみと癒えぬ傷の痛みを聞いた。

「生まれ育ったこの中つ国を魔王の手から護る為とあらばノルドールのエルフと共に戦う事も我等は厭いません。

 ですが私を信じてこの鍵を託して下さったエアルヌア王の信義に背いてまで、ノルドールのエルフに信を置く所以は、この私にはありません。

 何となれば、私はこの中つ国からノルドールエルフの最後のひとりを送り出すのを見届ける為、この港を護る身なのですから」

「キーアダン殿…」

そう呟いて言葉を詰まらせたアラゴルンは、“蛇の鍵”に視線を落とし、鈍色の輝きを放つその鍵にじっと見入ったのだった。

 

 

 

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