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宿業 13

 

ファラミアが一歩足を踏み入れた時、執務室は寒々とした重い空気に満ちており、部屋の主であるデネソールは窓辺に立って窓外に目を遣ったまま、扉の前に立つ次男に目をくれる気配すらなかった。

父の様子に困惑し、所在なく室内を見渡したファラミアは、部屋の中央にどっしりと設えられた執務机の上で視線を止めた。

整然と片付けられたその机の上で、引き裂かれ握り潰された羊皮紙だけが、異様な存在感を放っていた。

 

薔薇の東屋で目を覚ましたボロミアから聞かされた思い出話は、ファラミアに抑え切れぬボロミアへの想いを込み上げさせるのに充分だった。

“弟”の腕の中に抱き締められたボロミアが「そういえばファラミア」と軽く“弟”の背を叩き

「父上の侍従がそなたを探しておったぞ」

と邪気のない声で言うのを聞きいて、漸くファラミアは“弟”の顔を取り戻しボロミアを抱き締めていた腕を解いた。

「父上の侍従が、ですか?」

離れ難い気持ちを抑え込み、ゆっくりとボロミアから身を引き剝がしたファラミアに

「父上からそなたを正規軍に復帰させるとのお沙汰があるのやも知れぬ」

ボロミアは微笑んでそう言った。

「父上が…」

ボロミアの言葉を疑うつもりはなかったが、言い差して口を閉ざしたファラミアには、俄かにはそれを信じ難い気持ちがあった。

しかしボロミアはそんな“弟”の髪をくしゃくしゃっと撫で、穏やかな笑顔で頷いた。

「父上が昨夜仰ったのだ。

 そなたを正規軍に復帰させる心積もりでおられると」

その言葉でぱっと瞳を輝かせた“弟”にボロミアは

「あまり父上をお待たせしてはいかん。

 さあ、もう行け」

と満面の笑みを向けた。

ボロミアの笑顔に釣り込まれる様に、ファラミアは「はい」と笑顔で立ち上がった。

「お先に失礼します、兄上」

そうボロミアに一礼し、ファラミアが薔薇の東屋の出口に向かって踵を返した時

「夕餉の折に話をしよう。

 夕餉には遅れるなよ、ファラミア」

と、その背にボロミアの声が掛けられた。

振り返ったファラミアは

「はい、必ず」

弾ける様な笑顔でそう答えたのだった。

 

“あれから半刻も経っておらぬというのに…”

ファラミアは執務机の上に捨て置かれた羊皮紙から目を逸らすと、父に気取られぬ様、小さくそっと溜息を吐いた。

引き裂かれた羊皮紙の中に見慣れた自分の筆跡を見て取った瞬間、ファラミアにはそれが正規軍復帰の申請書である事が直ぐに知れた。

そしてまたその同じ羊皮紙に父の端正な蹟に依る署名も“視る”事が出来た。

そうであるからには、ボロミアの言葉に過たず、少なくとも1度は父も、ファラミアの正規軍復帰を承認していた事に疑いの余地はない。

しかしではなぜ羊皮紙は引き裂かれ、父は窓外を見遣ったまま口を開こうとしないのか?

その訳を思うと、ファラミアの胸には不安な暗い影がじわじわと広がっていた。

 

然るに部屋の沈黙を支配する父は、窓外に目を据えたまま微動だにしない。

その沈黙に耐えかねたファラミアが口を開き掛けたその刹那

「“兄上”と」

と言う、父の厳然たる声の響きが室内の静寂を破った。

「そなたがそう呼ぶ声に、よもや偽りが潜んでいようとは」

そう言葉を切ったデネソールは、そこで漸く次男に目を向けた。

「思い設けぬ事であった」

見る者の内心を見透かす様な灰色の瞳に射竦められ、ファラミアは思わずごくり、と息を呑んだ。

「“ボロミア”と」

とデネソールは、次男を見据えたまま窓辺から離れ、執務机へと歩を進めた。

「呼んだそなたの声に含まれた“欲”を、予は“聴いた”」

その言葉はファラミアの胸に鋭く斬り付けた。

冷たい手で心臓を鷲掴みされた様に、ファラミアは全身からすうっと血の気が引くのを感じた。

「その欲は弱き心に付け入り、己を見失わさせる毒を持つ」

何か言わねば、とファラミアは口を開いたが、言葉は乾いた喉に張り付き声にはならなかった。

「予はそなたに申した。

 西方の穢れた血に因る力は、その血を受けぬ者を護る為にこそ振るわれて然るべきである、と。

 その護る力は己を見失えば滅する力だ。

 毒持つ己の欲を恐れねば、いずれそなたは自らその毒の代償を支払う事になろう」

デネソールは机の上の羊皮紙を掴むと

「我欲を捨てよ。

 それが出来ぬのであれば」

と、羊皮紙を次男の足元に放った。

「そなたを“兄”の傍に置く事は出来ぬ」

デネソールのその言葉は、ファラミアの耳に入らなかった。

返す言葉もなく、唯足元の羊皮紙を見詰めるファラミアには、がくがくと震える膝を支え、その場に崩れ落ちてしまわぬよう耐える事しか出来なかったのだ。

 

“早々にヘンネス・アンヌーンへ引き揚げよ“

そう言ったデネソールの言葉を受け、従士を伴いペレンノールの砂地に馬を進めるファラミアは、冬の早い落日に背を染められながら、とぼとぼと土手道砦へと向かっていた。

“ボロミアと…、夕餉をご一緒出来なかった…”

手綱を持つ手に視線を落として項垂れていたファラミアは

“ファラミア!”

と呼ぶ声を“聴き”、はっと顔を上げた。

その場にぴたりと馬を止め、馬首を返したファラミアは、遠くなったミナス・ティリスの最上階を見上げて目を凝らした。

ファラミアのその様子を怪訝な表情で見遣った従士が「ファラミア様?」と呼び掛けた声はファラミアを素通りした。

白き都の最上階に突き出した狭間に立ち、“弟の名を呼ぶ兄”の声に耳を澄ますファラミアに“聴こえて”いたのは、その“兄”の声だけだった。

“弟”の薄青い瞳には、遥かに遠くなった“兄”が大きく手を振るその姿がはっきりと映っていた。

ぐっと手綱を持つ手に力を込めたファラミアは、胸の内に誓った。

“必ず正規軍に復帰して、貴方の許に戻ります。

 そして2度と再び貴方の許を離れません“

 

ヘンネス・アンヌーンに帰ったファラミアは、その後幾度もミナス・ティリスの大侯に宛て、正規軍復帰の申請書を送った。

しかしその度申請は却下され、ファラミア自身が白き都の大門を潜る許しも得られぬまま、それから数か月の時が過ぎた。

先行きの見えぬ不安な時の間は、寧ろボロミアを想うファラミアの情炎を搔き立てる事となり、何時しかファラミアは、ボロミアを想いながら床に就くのが習慣となった。

 

そして季節が春を迎えたある日の夜、いつもの様に床に就いたファラミアが夜の闇の中で目覚めると、そこは見慣れたヘンネス・アンヌーンの岩屋ではなく、執政館の一室になっていた。

但しその部屋はファラミア自身の居室ではない。

嘗て目にした事のある、忘れようもない“兄の部屋”だったのである。

信じられぬ思いでその部屋に設えられた寝台に目を遣ったファラミアは、そこに部屋の主が安らかに寝息を立てる姿を見た。

夢かとも思ったが、夢と言うにはあまりにも感覚が生々しかった。

とは言え夢でないと言うには、自らの足で立っているはずの足裏から伝わる床の感触は酷く心許なく、耳に聞こえる音の全てはぼんやりと幕が掛かった様に頼りなかった。

歩を運ぶ感覚が殆ど感ぜられぬまま、それでもファラミアは引き寄せられる様にボロミアが眠る寝台へと歩み寄った。

寝台の上に屈み込み、ボロミアに向かって手を差し伸ばしたその手を、ファラミアは思わず止めた。

ボロミアの寝顔が、差し伸ばした自らの手を透かし見る先にあったからだ。

ファラミアは、自らが実体を持つ存在としてそこにない事を知った。

“生霊<すだま>…か…?”

音のない声でファラミアがそう呟いた時、背後に小暗い気配を感じ、ファラミアは“はっ”と振り返った。

ファラミアがそこに見たものは、夜の闇が凝って人の形を取ったかのような漆黒の“影”だった。

その“影”がゆらり、と近寄るのを見て取ったファラミアは、さっと身を翻し、ボロミアを護る様に両手を広げ、“影”の前に立ちはだかった。

そうと見るや “影”からは鋭くファラミアに向かって“手”が伸びた。

間髪入れずファラミアはその“手”を振り払ったが、同時に激しい衝撃を受け、意識を失ったのだった。

 

気付くとファラミアは見慣れたヘンネス・アンヌーンの岩屋の中で寝台に横たわっており、既に日は高くなっていた。

春の日射しは暖かく岩屋の中に差し込んでいたが、ファラミアは全身がびっしりと冷たい汗で覆われているのを感じた。

強い疲労感が残る体をのろのろと寝台の上に起こし、ファラミアは呟いた。

「ボロミアを想う者が居る…」

口に出すとその考えは冷たい悪寒となって、ぞっとファラミアの背筋を駆け抜けた。

“果たせぬ情念が凝って生霊となる程に…。

 ボロミアを想う者が…居る…“

他ならぬ誰よりその情念を解しているファラミアは、それ故に居ても立っても居られぬ激しい焦燥感に囚われた。

“一刻も早く正規軍に復帰し、お傍近くでボロミアをお護り致さねば”

そう決意を新たにしたファラミアだったが、都の大門を潜る許しさえ得られておらぬファラミアにとって、それは遥かに遠く険しい道のりだった。

 

ファラミアが再びミナス・ティリスの大門を潜るのは、それから更に1年余りの時を過ごした後の事であった。

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