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イルーヴァタールの贈り物(後編)

 

薔薇の東屋を持つ園庭の前で暫し足を止めたデネソールは、僅かに目を細めて門の内部に目を凝らした。

西方の血を濃く継ぐデネソールはその血に備わる超常の力に依って、常態であっても2、3000フィートの内であれば容易に人の囁き声を聞き分けた。

2、3マイル先の人声でさえ、強く意識を集中する事で聴き取れぬではないと言われるその“聴く力”と同様に、西方の“視る力”は語られる。

しかし現実には“視る力”は“聴く力”程には常態化していない。

人の心の内を“視る”事は勿論、遠方を見通す事にも尋常ならざる集中力を必要とする。

其れとてどれ程強く意識を集中したところで、人の姿を見分けられるのは精々1マイル程までで、それも深い繋がりを持つ人物に関わる場合だけに限られる。

デネソールがその“視る力”を以て園内に確かめたのは次男の姿である。

そこには予想に違わず長男の姿も、また在った。

眠る長男とその傍らに立つ次男の姿に、ふとデネソールは在りし日の妻と己の姿が重なる錯覚を感じた。

妻の姿が邸内に見えぬ時、彼女はいつもこの園庭に居た。

気に入りのベンチで微睡む妻を迎えに園庭を訪れる事は、デネソールの密かな楽しみの一つとなっていた。

妻亡き後その対象は妻から長男へと引き継がれ、更にその後、デネソールのその役割は次男へと移り変わった。

嘗て妻フィンドゥイラスがそうであった様に、嫡男もまた、唯執政家の後継であると言うだけでなく、祖国ゴンドールにとって何者にも代え難い特別な存在であるという事を、自らと同様に西方の血を濃く継ぐ次男は、重々承知しているのだ、デネソールはそう解していた。

西方の血を継ぐ家系に生まれながら超常の力を持たぬただ人として、血の持つ責務だけを身に負って尚、曲がる事無く、歪む事無く、誠を尽くして祖国の為に生きるこの嫡男の在ってこそ、祖国の民は黒の勢力に抗し得ているのだ。

民が嫡男に抱く愛と敬意は西方の血を継ぐデネソールや彼の次男に向けられるそれとは大きく質が異なる。

それは妻に向けられた民からの愛と同質のものだ。

護り得なかった妻の、その澄んだ瞳の色を思い起こす時、デネソールは常に言い知れぬ愛しさと、そして言葉に出来ぬ程の悲しみに胸を塞がれる。

それ故デネソールにとって妻と同じ澄んだ翡翠色の瞳を持つ嫡男は、何としても護り抜かねばならぬ存在なのであった。

例え我が身を削ってでも。

 

ふっと我に返ったデネソールは、手にしていた羊皮紙に視線を落とした。

どうやら彼のその思いは次男にも引き継がれた様だった。

三日前、定例報告の為ヘンネス・アンヌーンから都に戻った次男は思い詰めた表情で父の執務室に現れた。

 正規軍に復帰したい

次男はデネソールにそう言った。

その訳を詳しく問う事はしなかったが、それが兄の身を案じての言葉である事は容易に察しがついた。

ふた月前、兄弟はニンダルヴで同じ戦場に立った。

通常執政家の後継である兄弟が同じ戦場に並び立つ事はない。

その為、次男が兄と共戦場で轡を並べたのはそれが初めて事だった。

次男はその戦場で何か思うところがあったのであろう。

その後一度定例報告の為都に帰った際には、いつもにも増して兄の様子を気に掛けていた。

結局次男は、遠征先からの帰投が遅れた兄とは会えぬままヘンネス・アンヌーンに戻ったのだが、次男がひどく兄を気に掛けていた訳は帰投した長男の、僅かひと月余りで目に見えて肉の削げた頬が雄弁に物語っていた。

長男を気遣う点に於いては父に勝るとも劣らない次男の事である。

既に兄のこの様子は聞き及んでいたのだろう。

ニンダルヴでオーク捕縛の討伐部隊を派遣する様兄に進言したのが自分だという責を感じているのやも知れなかった。

デネソール自身は敵が勢いを増した所以がニンダルヴでの討伐戦にない事を知っている。

口にこそ出来ぬが根拠もある。

事実己が目でその訳を“見ている”からだ。

その上で最も戦況の厳し戦場に長男を送り出しているのは他ならぬデネソール自身である。

ゴンドールの民にとってその様な状況下に於いて長男が勝利する事こそが、最も大きな支えとなっているのだと、デネソールも、そして何よりも長男自身が誰よりもよくそれを承知しているからだ。

それ故長男はその状況で出陣する事を厭いはせぬが、部下の死は彼を傷付けた。

次男もその事には気付いているのだろう。

敵兵を先鋭化させた真因は、如何に西方の血を濃く継ぐ次男といえども与り知らぬ事ではあるが、初めて同じ戦場の土を踏んだ兄の姿に何か気掛かりな点を見出したのやも知れなかった。

ヘンネス・アンヌーンでの任務が決して軽くはない事も、その任が自身に適している事も、次男は充分に承知している。

しかし次男はどの様な状況であれ、常に我が身を措いて兄の身を案じているのである。

そうであるからには、“正規軍に戻り、側近くで兄を支えたい”次男がそう思ったとて何の不思議もない事だ。

デネソールの手の中には次男の正規軍復帰を認める承認書がある。

兄弟揃いの場で渡してやれば長男の喜ぶ顔もまた見られるだろう。

滅多に見せない“父の顔”で口元に笑みを上せ、薔薇の鍵を園庭の門扉に近付けたデネソールの手が、鍵穴に鍵を差し込む寸ででぴたりと止まった。

「ボロミア」

デネソールの“聴く耳”が捕らえたのは、それまで耳にした事のない、甘い響きで囁く次男の声だった。

 

「ボロミア」

ファラミアはそう小さくそっと囁いた。

兄の眠りを覚まそうとした訳ではない。

唯口に出して呼んでみたかったのだ。

その人の名を。

“ボロミア”と。

目覚める気配のない兄の寝顔はあどけない程に邪気がなく、ふっとファラミアは気持ちが緩んだ。

気が付くと彼は、彼の人のその白い額に口付けていた。

ファラミアがゆっくりと身を離すと同時に金の睫毛がふるりと震え、彼にとってこの世で最も美しい碧が見開かれた。

「ファラミア?」

ぽやんと焦点の合わぬ瞳でファラミアを見詰めて問うたその人に

「はい、兄上」

と、ファラミアはそう微笑んだ。

大きく伸び上がった兄の隣に腰を下ろしたファラミアに向き合い、ボロミアはにこりと無邪気に微笑んだ。

「そなたにはいつもここで見つかるな」

怪訝な表情で小首を傾げる弟に

「いつぞやも宴席を抜け出した折、そなたにここで見つかった」

そうボロミアは悪戯っぽく笑った。

「ああ…」

思い出してファラミアの頬も緩む。

あの時生涯弟として生きると誓ったファラミアは既にない、が。

「あの時兄上はおっしゃって下さいましたね。

 兄上が私を望んで下さったと」

「申したな」

屈託なく笑うボロミアには、当然の事ながらファラミアの言葉に秘められた想いは届かない。

勿論期待した訳ではない。

期待した訳ではなかったが、それでもファラミアの胸には微かな痛みが過る。

「ここには良い思い出ばかりある所為か、今も大層好い夢を見ておった」

「夢…ですか?」

「そなたが生まれた頃の夢だ」

「え?」

思いがけぬ言葉に不意を突かれファラミアは目を瞬かせた。

「そなたの誕生を祝って、ドル・アムロスの大公家が御一家でこのミナス・ティリスを訪ねてみえられてな」

ボロミアは当時を思い出す様に遠い目をして言った。

「目出度き事ゆえ普段執政家の者以外は立ち入れぬこの園庭を大公家の御一家にもお目に掛けたい、とおっしゃった母上の願いを、父上がお聞き入れになられたのだ」

「父上が…?」

「何を驚いておる?

 よもや父上がそなたの誕生を喜んでおられなかったとでも思っておったのか?」

「そういう訳では…」

言い淀むファラミアの髪をくしゃりと撫でてボロミアは笑った。

「父上がこの東屋に茶席を設え、母上の腕に抱かれたそなたを皆で囲んだのだ。

 花は無かったが菓子の甘い香りが園内に溢れ、冬とは思えぬ日差しが暖かく、皆が笑顔でそなたを見ておった。

 私にとってあれは、イルーヴァタールの贈り物の様な一日であった。

 この幸福を運んできたのが我が弟なのだと思うと鼻が高かったものだ」

ファラミアは言葉を失った。

「おお、そういえば今日は12月の25日であったか?」

「え?ええ…、然様ですが…」

「だから斯様な夢を見たのやも知れぬな。

 その日も12月の25日であった故」

「覚えて…おられるのですか?」

「勿論だ!

 あれ程幸福な一日を忘れ様はずがない」

胸を張って笑うボロミアの笑顔にファラミアの胸が射貫かれた。

思わずファラミアは後先も考えず、ボロミアを力一杯抱き締めた。

「ファ…ファラミア?!」

ボロミアの声にゆっくりと身を離したファラミアは、潤んだ瑠璃色の瞳でその人を見詰め、口には出来ぬ想いを秘した声で言った。

「私にとっては」

“ボロミア”

「貴方こそ」

“貴方を”

「イルーヴァタールの贈り物です」

“愛している”

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