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初恋 9

 

ミナス・ティリスの西の方が、夕刻の朧な色を映し始める頃、長く続いた軍議が漸く終わりを告げようとしていた。

 

敵の動きが今ひとつ読めぬ中、これまで、特に手薄となっていたウンバールの海賊に対する備えには幕僚達の間で意見が分かれた。

しかし、母なる大河アンドゥインに敵の足を踏み入れさせる事は幕僚達の誰にとっても許しがたい気持ちに変わりはなく、結果的に第9、第10の2個大隊の派兵に加え、南街道がエルイ川と交わる川辺にペラルギアとミナス・ティリスを中継する陣を張り、斥候の情報如何に因っては白の都へもペラルギアへも即刻増兵出来る様にと、第6大隊の出兵も決定された。

勿論、ミナス・モルグルの動静も無視する事は出来ない。

元よりミナス・モルグルの城主はアングマールの魔王なのである。

明白過ぎる兵の招集の裏にどの様な企みがあるのかは、幕僚達の誰にも読めないのである。

討議の末、ミナス・モルグルに動きがあり次第すぐさまオスギリアスへ援軍を送り出せる様、ペラルギアへの派兵後すぐに第4、第5大隊の出兵準備に取り掛かる事を幕僚達が合意した頃には、窓外はすっかり夜の帳が降りていた。

 

幕僚達が士官への伝達の為退出した会議室には文官である重臣達が残り、今回の出兵に際して戦費の詳細検討に入っていた。

本来今回の様な大規模な出兵であれば、歳費のやりくりで頭の痛い会議となるところであったが、今回は重臣達を始めとする都の名家からの供出金が思いの外多額となり、戦費の捻出には然程苦労する事なく拠出金の額が決定されていった。

 

ブランディアは手元に広げられた各家からの供出金を記した羊皮紙を眺めながら内心ほくそ笑んだ。

供出金を吊り上げる先鞭を付けたのは、他ならぬ彼の娘・ニエノールだったからである。

 

ニエノールは自らの宝飾品を供出する際、各家の井戸端でそれぞれの家の侍女の口を通して噂が広まる事を計算に入れ、各家の供出金の額や、その家の子女が供出した宝飾品の数を彼女達が競い合う様、巧みにその敵愾心を煽る様に侍女に入れ知恵したのだ。

結果として、彼女達は数を競って自らの宝飾品を供出し、彼女の夫や父、兄弟達に多額の供出金を出さしめた。

“一介の近衛兵の娘如きにこの様に巧みな駆け引きが出来ようはずもない”

ブランディアは思った。

“大丈夫だ。

 この事をデネソール様がお知りになられれば、必ずお分かり頂ける。

 ボロミア様にとって本当に必要な妻となる娘がどちらかは。

 まだ婚儀が決まった訳ではない。

 重臣の承認を得ぬ婚約など、如何様にでも覆せよう“

 

 

兵達は、2日続けて軍議の伝達を受けるまでの長時間の拘束で、流石に皆表情に疲れの色が滲んでいた。

それでも伝達を受け状況を把握すると、各自配属の決定に従い、翌日からの準備に備え、皆足早に家路に就いた。

今回の出兵ではべレグはペラルギアへ補完要員としての出兵を命じられ、グウィンドールはオスギリアスで駐屯中に負傷した第3大隊旗下の中隊長帰投への臨時交代要員として、援軍部隊と共にオスギリアスに向かう事となった。

 

第6階層へと通じる通路の入口で、べレグとグウィンドールが辞去の挨拶を告げた時、ボロミアは珍しく寂し気な瞳で「皆、都からいなくなるのだな」と、ぽつりと呟いた。

グウィンドールとべレグは顔を見合わせると、互いに零れそうになった笑みを噛み殺した。

「若、今回は火急の事故、我等も心残りではありますが、正式な儀典の折には我等一同打ち揃いまして、盛大にお祝い申し上げる事に吝かではありませぬ故」

と言うグウィンドールのその言葉に、ボロミアは長い指を口元に当て「いや、私は…その…」などと口籠ってしまう。

ボロミアの様子にますます込み上げる笑いを堪え

「しかし今回は、見事に我らの方が若に先を越されましたな」

と、べレグがそう言うと、ボロミアはかあっと首まで赤くして、しきりにその長い指で顔を撫でながら「いや…、まあ…」とか「それは、その…」と言って俯いてしまう。

年長の二人は公子のその姿に、とうとう我慢しきれず吹き出すと、朗らかな笑い声を上げた。

「そなたら…」

困った様な表情で二人を見る公子に、微かな笑いを残したままグウィンドールが言った。

「いや、申し訳ありませぬ、若。

 しかしこれしきの事でその様に照れておられては、正式なご婚約の折には如何なさいます」

「まあ、それは…」

と、相変わらずその美しい指でしきりに顔を撫でながら言う公子に、べレグは鹿爪らしい苦笑いを作って見せた。

「これは我等が戦場に出ている間、ニーニエル殿と充分睦まじくしていただかねばなりませぬな」

「べレグ!」

と、耳まで赤くしたボロミアに「然様、然様」と、グウィンドールも鷹揚に頷いた。

そんな二人を、何とも困り果てた表情で見る若い公子に、漸くいつもの温和な笑顔に戻ったグウィンドールが静かな声で言った。

「されど若、我等近衛の兵が若のお幸せを願う気持ちに偽りは御座いませぬ。

 我等が戦場より戻りし折には、若が愛するお方と並び立ち、この白き都にて我等を迎えて下さるのを、皆心より願っておりますぞ」

「グウィンドール…」

グウィンドール同様、すっかりいつもの沈着な表情に戻ったべレグが、上官の言葉に、確と頷いた。

「べレグ…」

ボロミアは二人の手を取り、真摯な声で言った。

「そなたらの気持ちに応える様努力しよう。

 そなたら帰投の折にはニーニエルとふたり、この白き都にて確かに出迎え様程に、皆必ずや無事に戻れ」

「若」

二人は公子の手に手を重ね、三人は固く互の手を握り締めた。

 

 

ニーニエルは木片に刻まれた文字を指でなぞって伝承の物語を読んでいた。

暫く考えた後亡き父が作り置いてくれた金釘に木の柄を付けた“ペン”で“本”の横に置いた木片に文字を刻んだ。

自分で刻んだ文字を指でなぞったニーニエルは小首を傾げて小さく溜息を吐いた。

 

昨日来戦の準備で俄かに騒がしくなった昼間の城中では、見習いとはいえ、ニーニエルも常より増した仕事に追われ、夕刻になる頃漸く園庭に足を運ぶのがやっとだった。

指先に感じる芽吹いたばかりの若い葉が持つ瑞々しい命の息吹は、殺伐とした仕事の終わりに、ニーニエルに安らぎを与えてくれた。

部屋に帰ったニーニエルはボロミアに約束した様に、その安らぎを与えてくれた若い葉が、いずれ育った後に咲くであろう花の名を考えようと、昨夜から何枚か棚から持ち出していた伝承や詩歌、エルフの言葉を刻んだ木片を机に並べ、その文字を指でなぞっていた。

しかし心の行方は思うに任せず、考えようとすればするほど、ニーニエルの気持ちはボロミアの柔らかな耳に優しい声音や、自分の手を包み込んだ長くて美しい指、手の平から伝わる温もりを愛おしむ想いに囚われ、なかなか好い名は浮かばなかった。

 

机の上の木片を指でなぞりながら“これは母様のお蹟ね”とニーニエルは思った。

立ち上がって棚の前に行くと、何枚かの木片を取り出し、ニーニエルはそこに刻まれた文字に指を滑らせた。

“これは女官長様、こちらは…”

と、それぞれの文字を刻んだ女官達の名を思い描くうち、ニーニエルの胸は温かく懐かしい幸福感に満たされた。

“私は幸せ者だわ”

ニーニエルは温かい思いで、その数枚の木片を胸に抱き締めた。

 

ニーニエルの母は、その目に光を捉える事の出来ぬ娘を授かった時、いずれその娘が読む事が出来る様になる事を願い、伝承の物語や詩篇を一文字一文字望みを込めて木片に刻んでいった。

父はそんな母と、いずれその木片で物語を読み文字を刻む事になであろう娘の為、文字が刻み易い様に薄く割って蝋を塗った木片と、先を削った金釘に木の柄を取り付けたペンを何枚も何本も、仕事の合間を見ては作り置いた。

父亡き後、母が女官に復職してからは、仕事の合間に女官達が代る代る木片に文字を刻み、幼いニーニエルに根気よくその木片に刻んだ文字を教え、物語や詩歌を読んで聞かせた。

 

胸に抱いた木片からは、そうして自分を育ててくれた父母や女官達の温もりが伝わり、ニーニエルの胸の内にあった、ボロミアに会えぬ淋しさを溶かしていった。

 

その時、部屋の外で戸を叩く音があり

「ニーニエル、まだ起きている?」

という、女官長の声がした。

「はい、女官長様」

そう答えたニーニエルが木片を棚に戻していると、「入るわよ」と、女官長だけでなく、数人の足音が室内に入ってくるのが聞こえた。

訝し気に足音のする方に向き直ったニーニエルの腕にふわりと布の触れる感触があり、ニーニエルは、反射的にその布に指を滑らせ、さらりとしたその感触を確かめた。

普段触れた事のない柔らかな布の感触にニーニエルが小首を傾げると

「お前の母さんの花嫁衣裳よ」

と、そう深く慈しむ様な女官長の声が聞こえた。

女官長はニーニエルにその花嫁衣裳を抱かせると、静かな温かい声で言った。

「公子様との正式な儀典の場となれば、お衣装も礼に則った正式なものが仕立てられる事になるけれど、今回のご婚約は略式だから、せめて今回だけでも、お前の母さんが残したこの衣裳を、お前に着せてやりたかったの」

「女官長様…」

「私達が皆で仕事の合間に仕立て直すわ」

部屋に入って来た女官の一人が言った。

「大丈夫よ、私達全員でかかれば、明後日までには充分仕立て直せるわ」

別の女官が言った。

「さあ、ニーニエル、採寸させて頂戴。

 丈を詰めて袖を直さなくちゃ」

「皆様…」

女官達の声に、ニーニエルの瞳にはみるみる涙が溜まっていった。

「ニーニエル、お前の母さんと違って、私達の様に生涯女官として城中に仕える誓を立てた者には、本来子を持つ喜びは味わえないわ。

 でもお前の母さんはお前を連れてこの城中に戻ってくれた。

 お前の母さんのお陰で、私達は皆、娘を持つ喜びを知る事が出来たのよ」

女官長のその言葉に、ニーニエルの青い瞳から、はらはらと涙の粒が零れ落ちた。

女官長はニーニエルの頬を伝う涙を拭うと、花嫁衣裳ごとニーニエルを抱き締めて言った。

「お前は私達皆の娘よ。

 幸せになって頂戴、ニーニエル。

 私達の大切な可愛い娘」

女官長のその言葉を合図の様に、部屋にいた女官達が皆でニーニエルを取り囲み、代る代るニーニエルを抱き締め、笑い、涙した。

その泣き笑いの渦の中で、ニーニエルは胸一杯に溢れる幸福感を噛み締めた。

“父様、母様、見ていて下さいますか?

 ニーニエルは今、こんなにも、こんなにも幸せです“

 

 

淡く輝く月の光が、ニーニエルと女官達の笑顔を照らし出していた同じ頃、マブルングは公邸の中庭で手燭を翳し、芝草の上を這い回る様にして“鍵”を探していた。

家礼達の中に鍵を拾ったという者は見つからなかった。

あとはその鍵が捨て去られたまま野晒しになっている事に望みを繋ぐしかなかった。

そうして芝草の上に目を凝らしていたマブルングの目の前に、女物の靴の汚れた爪先が目に入った。

マブルングは這いつくばっていた芝草から身を起こし、その靴の先にある娘の顔を見上げた。

靴の主は何度か顔を見た事のある下働きの女官だった。

鎖を通した鍵を、指の先でくるくると弄びなから、その娘は言った。

「あんたが探してるのはこれ?」

マブルングは服に付いた芝草を払いながら立ち上がると、娘をじっと見詰めて聞いた。

「いくら欲しい?」

マブルングの言葉に、娘は口の端をにやりと歪めた。

「どうせあんたの懐が痛むわけじゃないんだろ?

 だったら、その出処が悲鳴を上げるくらいの金は積んでもらうよ」

 

娘の言葉を聞いたマブルングは、月を背に受け、娘に見えぬ陰の内にあって、魔狼の如き笑みを、その口元に浮かべた。

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